東京春祭《ニュルンベルクのマイスタージンガー Die Meistersinger von Nürnberg》(演奏会形式・字幕映像付)

あっという間に4月が来た。3月26日に新国立中劇場で「Dance to the Future 2013」を観たがさほど心が動かず、感想は書かず仕舞い。3月29日金曜日のBCJによる《ヨハネ受難曲》はすばらしい演奏だったが、これも別の理由からアップせず。受難曲を聴くと、エヴァンゲリストレチタティーヴォ義太夫節の語りとの類似性や楽曲の複層的な構造等にいつもワクワクさせられるが、言語化するにはまだ知らないことが多すぎるので。

4月4日にヴァーグナーの楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》を演奏会形式で聴いた(東京文化会館)。これは少し書いておきたい。

指揮:セバスティアン・ヴァイグレ Sebastian Weigle
ハンス・ザックス:アラン・ヘルド Alan Held
ポークナー:ギュンター・グロイスベック Günter Groissböck
フォーゲルゲザング:木下紀章
ナハティガル:山下浩
ベックメッサーアドリアン・エレート Adrian Eröd
コートナー:甲斐栄次郎
ツォルン:大槻孝志
アイスリンガー:土崎 譲
モーザー:片寄純也
オルテル:大井哲也
シュヴァルツ:畠山 茂
フォルツ:狩野賢一
ヴァルター:クラウス・フロリアン・フォークト Klaus Florian Vogt
ダフィト:ヨルグ・シュナイダー Jörg Schneider
エファ:アンナ・ガブラー Anna Gabler(ガル・ジェイムズの代役)
マグダレーネ:ステラ・グリゴリアン Stella Grigorian (ミヒャエラ・ゼリンガーの代役)
夜警:ギュンター・グロイスベック Günter Groissböck
管弦楽:NHK交響楽団
合唱:東京オペラシンガーズ
合唱指揮:トーマス・ラング Thomas Lang、宮松重紀
音楽コーチ:イェンドリック・シュプリンガー Jendrik Springer
映像プランナー:辻井太郎
字幕:平尾力哉
映像・字幕操作:アルゴン社
(全3幕/ドイツ語上演・字幕付)
上演時間:約5時間30分(休憩2回含む)

これまで聴いた春祭のなかではもっとも充実した公演だったかも知れない。質の高いアーティストが適材適所に配役された結果だろう。
演奏会形式のオペラでは演劇的な動きがない分、音楽に集中することになる。セバスティアン・ヴァイグレ指揮のN響はふっくらと柔らかな響きで豊かな音楽を作り出した。もっと濃密な響きがほしいと感じるところも部分的にはあったが、これがいまの日本のオーケストラの水準だと思う。なかなかのものだ。第3幕の前奏曲では、ヴァイグレの指揮もコクのある音を要求し、深い瞑想的な響きが引き出された(が、ほどなく通路を隔てた右横の初老婦人がバッグから飴を取り出し、長い時間をかけて包み紙を剥いていく。回りの客が一斉にその方角を恨めしそうに見るのだが、注意するには遠すぎる。なぜこのタイミング? 数分前まで30分休憩があったのに)。
ザックスを歌ったアラン・ヘルド(バス・バリトン)は知的で深みのある朗唱。内的な力強さも感じた。初役とのことだが、とてもそうは思えない(彼のブログによれば、11年前トリノのRAI国立交響楽団のコンサート形式でザックスを歌うべくかなり時間をかけて準備したが、奥さんの病気でキャンセルせざるをえなかった。ウィーン国立歌劇場の元総支配人ホレンダー氏が3年まえ春祭でのザックス役に彼を推薦し、今公演のリハーサルにも同席していたという。この公演はヘルドにとって特別の意味があったようだ)。
ヴァルター役のクラウス・フロリアン・フォークト(テノール)は本調子ではなかったように感じたが、例の素直でやさしい歌声を聴くと、つい頬が緩んでくる。昨年の《ローエングリン》での感動はいまも忘れがたい。
ベックメッサーアドリアン・エレート(バリトン)は、コンサート形式にもかかわらず、終始、役を生きる在り方で舞台を盛り上げた。エレートは新国立劇場でも《コジ・ファン・トゥッテ》(2011年5月)のグリエルモや《こうもり》(2011年12月)のアイゼンシュタインを芝居気たっぷりに好演した。
ポーグナーと夜警の役を掛け持ちしたギュンター・グロイスベック(バス)は37才の若手だが、声に深さというか奥行きがあり、そのうえ艶もある。新国立では昨年の《ローエングリン》でハインリヒ国王を好演。2009年の《チェネレントラ》ではアリドーロも歌っている。
コートナーを歌った甲斐栄次郎(バリトン)は力強い歌声で声量も申し分ない。ダフィト役のヨルグ・シュナイダー(テノール)もマグダレーネ役のステラ・グリゴリアン(ミヒャエラ・ゼリンガーの代役)も脇役として一定の水準をクリアしていた。他の日本人歌手たちも同様だ。
残念ながら、アンナ・ガブラー(ガル・ジェイムズの代役)はエファ役としては物足りない。第3幕では多少とも力を入れ直したように感じたが、やはり声にも在り方にも艶が乏しい。エファは出番は少ないが、ヴァルターやザックスらを魅了する重要な役。ただそつなく歌えるだけでは務まらない。上記の新国立《こうもり》でロザリンデを歌ったときも同じ印象(これもイルディコ・ライモンディの代役だった)。
東京オペラシンガーズの合唱は、どういえばよいか、悪くはなかった。ただ、いつも新国立やBCJのコーラスを聞き慣れている所為か、もう少し精錬度の高い響きを望んでしまう。
今回は舞台正面のスクリーンに各場面のイメージを映し、そこに字幕も提示していた。ただ、後者に少し問題があり、音楽に集中できない時間があった。たとえば、第1幕第1場は字幕のタイミングが早すぎて、歌手が実際に歌っているときにはその歌詞がすでに消えていた。また、重唱では、それぞれの歌詞を(たぶん)省略せずに提示するのはよいのだが、誰がどの歌詞を歌っているのかよく分からない。今後は工夫の余地がある。BCJのコンサート・オペラ《ポッペアの戴冠》(2009年/新国立中劇場)での試みなどは参考になるだろう。
本作を聴いたのは新国立劇場バイエルン国立歌劇場神奈川県民ホール)がたまたま同時期に競演した2005年以来だ。あのときも、芸術論としての面白さを感じた記憶がある。メタオペラといってよいのか。たとえば、第1幕第3場で新参のヴァルターによる規則を無視した大胆な歌唱にベックメッサーをはじめマイスターたちは一斉に異を唱えるが、ザックスだけは弁護して次のように歌う(白水社の対訳シリーズから引用したいところだが、手元にないので古い訳を使用)。

騎士殿の詩と節とは、新しいものとは思うが、/混乱しておりません。/われわれの道から外れてはいるが、/彼の歩みはしっかりとし、迷いがない。/あなたがたの規則に従っていないものを、/規則に照らそうとする場合には、/自分たちの規則は忘れてしまって、新しい規則をもとめなければならぬのです。(渡辺護訳)

じつに考えさせられる言葉だ。文学を含む芸術作品を評価する場合、多くの作品受容からインターテクスト的に形成された価値基準で作品を判断することは避けられないし、望ましいとさえいえる。だが、そこには頑迷な保守主義に陥りかねない危険性も潜んでいる。生きた芸術にとって、そうした規範(パラダイム)を超えた作品の出現をこそ、ザックスのように待ち望む構えが重要なはずだ。T. S. エリオットの伝統論をもじっていえば、真に新しい作品に出会ったら、手持ちの価値基準(つまり自分)をたとえ僅かでも変更しなければならない。芸術を享受するうえで、このことは肝に銘じておきたいと思う。
ところで、今回の字幕ではFliederを「ニワトコ」ではなく「リラ」と訳していた(平尾力哉訳)。ただ、鶴間圭によれば、「リラは春に紫色の花を咲かせ、ヨハネ祭の頃には芳香を放つ時期を過ぎているし、オリエント原産のリラは、[作品の設定である]16世紀半ばにはまだドイツにもたらされていなかった」という(『オペラ鑑賞ブック4』)。また、新国立版を演出したベルント・ヴァイクルも当時のオペラトークで同じ趣旨のことを言い、次のように付け加えていた「実際にFliederという名前のワインがありまして、それに使われている実はHolunderニワトコなのです」(2005年8月24日)。にもかかわらず字幕を「リラ」としたのはなぜだろうか。