コリン・カリー・グループ:ライヒ《ドラミング》ライヴ Steve Reich's DRUMMING/果てしない反復の果てに微かな変化=希望が/日本の若者気質との親和性?

コリン・カリー・グループによるライヒの《ドラミング》他を聴いた(12月5日/東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ メモリアル)。

スティーヴ・ライヒ作曲:
「クラッピング・ミュージック——2人の手を叩く奏者のための」(1972)
演奏者:スティーヴ・ライヒ/コリン・カリー
「ナゴヤマリンバ——2台のマリンバのための」(1994)
演奏者:コリン・カリー/サム・ウォルトン
「マレット楽器、声とオルガンのための音楽」(1973)
演奏者:コリン・カリー・グループ/シナジー・ヴォーカルズ
休憩
「ドラミング——声とアンサンブルのための」[全曲](1970-71)
演奏者:コリン・カリー・グループ/シナジー・ヴォーカルズ

「クラッピング・ミュージック」は76歳のスティーヴ・ライヒが38歳のコリン・カリーと共演。ただの拍手といえばそれまでだが、2人の呼吸を合わせないと成立しない。その妙味。フラメンコみたいだが、後者のように先行演者のリズムに即興的に介入し、挑発するようなことはしない。あくまでも「設計図」に則り、2人のクラッパーが規則的にクラップしていく。一方が「1拍先に出る」(プログラム)等により「変化の流れ」が生じるというが、これはたしかに「聴きとりにく」かった。
「ナゴヤマリンバ——2台のマリンバのための」は互いに向き合った2台のマリンバを奏者も向かい合わせで演奏する。まるで2人が対話しているかのよう。あるいは、2羽の蝶が戯れながら飛び回っているような趣も。琴のような、和の響きを感じた。名古屋のしらかわホール会館を記念して作られたそうだ。
「マレット楽器、声とオルガンのための音楽」。マレットmalletは打楽器等のバチ(枹)のことらしい。マリンバグロッケンシュピールにオルガンと女声3名が加わり、響きがぐっと豊かに。同じリズムや音型の繰り返しから、やがて、わずかに変化が訪れる。そのささやかな新鮮さ。が、また反復が延々と続いていく。やがて、また、微細な変化が生じる。その感知が心地よい。ガムランのような響き。鐘の「ディン・ドン・ダン」が幻聴のように聞こえてくる。やがて、唐突に音が止む。まるで人生のように。
休憩後は大作「ドラミング」。以前、彩の国さいたま芸術劇場でケースマイケル振り付けのダンス作品として見た/聴いたことはあるが(2001年)、生の演奏を聴くのはこれが初めて。ボンゴ・ドラム4対のパート1では、まずカリーがバチで2台のボンゴを叩き始め、そこへ別の奏者が加わっていく。やがて4人のドラマーは徐々にエネルギーを増していき、昂揚した空気を作り出す。かけ声が入ってもおかしくない感じ。そこへ「マリンバ3人がその(ドラムの)音型を四分音符2拍分ずれた位相で静かに入ってくる」とパート2になる。やがてドラムはフェードアウトし、マリンバだけの演奏が続く。そこへ2人の女性の声がマリンバの反復される音型と響きを「模倣する」。パート3では、同様に、今度は4人の奏者が3台のグロッケンシュピールマリンバの音型を反復していく。ほどなく、マリンバはフェードアウト。ここでは、口笛とピッコロがグロッケンシュピールを「模倣する」。パート4はすべての楽器と声が総動員され、最後はヴォーカルの女性がマーチングバンドのリーダーのように拍子をとり、約1時間ほど続いた音楽は終わる。
めくるめく幻聴の渦の持続。いずれのパートでも、反復の中へ新たな奏者が縄跳びに入ってくる感じで合流し、リズムと音型を変化させる。その瞬間の気持ちよさは「マレット楽器・・・」と同じ。〝単調な〟ルーティーン(日常)が延々と続くのは、その〝ささやかだが、好ましい〟瞬間のためだと思えてくる。唐突に訪れる変化への希望が単調な反復に意味を持たせるのだ。
音楽が終わると、ものすごい歓声があがり、ほぼ全員がスタンディングオベーション。ちょっと驚いた。通常のクラシックコンサートとは客層が違う。なにより平均年齢がかなり若い。ライヒがこれほど若者に支持されているとは知らなかった。平凡な日常に「A Small, Good Thing」を見出すミニマルなアートは、いまの若者たちと波長が合うのだろうか。いまの日本の若者気質は、高望みせず、車やブランド服にも興味を示さず、酒もあまり飲まないで、そこそこの生活に満足感を見いだすのだという(ほんとか?)。そうだとすれば、彼らにとって、ライヒの音楽はそんな自分(若者)たちのありようを肯定してくれる、そう直感しているのかも知れない。もっとも今回演奏されたのはほとんどが70年代の作品なのだが。