新日本フィル #609 定演 /ブルックナー#7/希望としての歌

新日本フィル #609 定演 ジェイド〈サントリーホール・シリーズ〉を聴いた(9月5日 19:00/サントリーホール)。指揮は上岡敏之コンサートマスターは崔文洙。遅まきながら、ごく簡単にメモする。

フランツ・シューベルト(1797-1828):交響曲第4番 ハ短調 D417「悲劇的」

〝 歌の人〟シューベルトの19歳の作品。こぢんまりしたきれいな音楽、あるいはそのような演奏だった。

アントン・ブルックナー(1824-96):交響曲第7番 ホ長調 WAB 107(ハース版)

 初めて聞くような感じ。シューベルトと地続きで、どのパートも自然に歌っている印象だ。終演後、電車内で音楽監督の「2019/2020 SEASON MESSSAGE」を見たら、歌と人間との本質的な関係に言及し、争いの絶えない世界にあって、歌に希望を見出したい旨が綴られていた(プログラム)。なるほど。

第一楽章の地上と天上を往還するようなテーマはとても伸びやかで自然。第二楽章はワーグナーへの追悼(葬送)音楽として有名だが、短調長調いずれのテーマも実によく歌っていた。とりわけ長調の主題はとても懐かしく美しい。 故人との交わりを、あれは天国だったのかと追慕しているような印象だ*1。二つの主題をうねるように何度も繰り返し、やがて頂点を極める。が、どこまでも自然でふっくらとしていた(シンバルやトライアングルを加えずティンパニのみの選択は説得的)。決して咆哮し威圧することはない。そもそも歌では威圧できない。終楽章の開始テーマでヴァイオリンは指揮者から生を吹き込まれ、飛び跳ねるように歌う(崔!)。ラストですべて音が鳴りやみ、完全に消えていくまで美しい沈黙が保たれた。客席は満杯ではなかったが、本当に耳を傾ける人だけが来ていたようだ。こうでなくては。

いたるところで分断や争いが絶えない現在、上岡敏之新日本フィルは、音楽家として、歌うことの素晴らしさ、人間に本来そなわっている歌心を、身をもって示した。ヒットラーが自殺したあとドイツのラジオ放送はこのアダージョワーグナーの《神々の黄昏》から「ジークフリートの死」を終日流したという。演奏は総統お気に入りのフルトヴェングラーが指揮するベルリンフィル。「英雄の死」を印象付けるためだろう。が、この日の演奏は「英雄の死」からはるかに遠い、どこまでも人間的な音楽だった。

*1:E. Dickinsonの詩の一節を思い出す、「別れは天国について我々が知っているすべてであり、/地獄について知らねばならぬすべてである」。