新国立劇場オペラ《セビリアの理髪師》/音楽的求心力が不十分/カーテンコールは舞台と客席の対話である

新国立劇場オペラ《セビリアの理髪師》の再演を観た(12月1日)。初日はハーディング指揮の新日本フィル公演と重なったため、エクスチェンジサーヴィスでこの日に変更。

【指揮】カルロ・モンタナーロ
【演出】ヨーゼフ・E ケップリンガー
【美術・衣裳】ハイドルン・シュメルツァー
【照明】八木麻紀
【舞台監督】斉藤美穂
【アルマヴィーヴァ伯爵】ルシアノ・ボテリョ
【ロジーナ】ロクサーナ・コンスタンティネスク
【バルトロ】ブルーノ・プラティコ
フィガロ】ダリボール・イェニス
【ドン・バジリオ】妻屋秀和
【ベルタ】与田朝子
【フィオレッロ】桝 貴志
【合 唱】新国立劇場合唱団
管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団

このプロダクションの上演はたしか三度目か。キャスティングにバラツキがあり、出来としてはいまひとつの印象。
フィガロのダリボール・イェニスはヴォリュームある声で芝居もうまく実力を示したが、少しやりすぎの感も。全体のバランスへの配慮も必要だろう。それにフィガロとしては歌唱が重すぎる。アルマヴィーヴァ伯爵のルシアノ・ボテリョは叙情的なフレーズなど好ましい部分も聴かれたが、アジリタの技巧に若干難があり、なにより声量が足りない。フィガロが太い声を容赦なく出しまくるため、さらにいっそう霞んでいた。ロジーナのロクサーナ・コンスタンティネスクは姿はよいが、歌唱では聴かせるだけの魅力に欠ける。今回の公演はバルトロ役のブルーノ・プラティコで持ったといっても過言ではない。年はとっても喜劇のツボを外すことはない。舞台上に居るだけで楽しい。ベルタ役の常連与田朝子は芝居はよいと思うが、歌になると、声を響かせよう等の余計なものが加わってしまう。役のままで歌えないものか。隊長の木幡雅志は与田同様、芝居はとてもよかったが、声を出すや、たちまちひ弱な二枚目になった。
ところで、伯爵がギター伴奏でロジーナに歌いかけるカンツォーネだが、最初だけ伯爵自身がギターを奏でる振りをし、あとはフィガロに伴奏をまかせるという設定。伯爵のギターが〝振り〟なのは明らかだが、フィガロの弾き振りはやけに巧みで自然だった。休憩時に、2階バルコニーで見た知人に聞くと、前半はたしかにピットでギター奏者が弾いていたが、後半は居なくなったとの由。あれはイェニスが本当に弾いていたのか。だとすればかなりの腕前だ。もっともシラグーザの伯爵は自分で弾きかつ歌っていた(アルベルト・ゼッダ指揮/藤原歌劇団/2011年9月)。
指揮のカルロ・モンタナーロは悪くない。ただ、全体を音楽的にまとめる求心力がもっとあれば、イェニスの暴走を抑えられたのではないか。
演出はやはりごちゃごちゃしていて動きすぎの印象が拭えない。ロッシーニの音楽に見合う動きならOKだが、そこから外れる部分が多々あるように感じる。助演の役者たちの演技は、酔った動き等をはじめ、いまひとつリアリティに欠ける(例の巨体の女性は好い)。これなら、いっそ演劇研修生たちに〝実習〟の機会を与えたらどうか。
2幕のバルトロに身分を明かした後の伯爵のアリアはこのプロダクションではカットされている。技術的に難しいから? それとも時間? いつもこれを聞けないのはちょっと損した気分になる(今回のキャストでは致し方ない気もするが)。過剰な演出も含め、このプロダクションはもういいのではないか。
カーテンコールで、指揮者が呼ばれた後のレヴェランスは、せいぜい二回が限度だと思う。それでいったんカーテンを降ろす。客がさらに拍手で催促すれば、再び開ける。これは、客席と舞台の対話であり、コミュニケーションだ。今回のように(今回だけでなくバレエを含めこれまで何度も目撃してきたが)、歌手(ダンサー)たちが明らかに長すぎると感じているにもかかわらずカーテンを降ろさず、三回も四回もレヴェランスをさせてはいけない(これでは、アーティストたちを安売りすることにもなる)。舞台にアーティストたちが再び姿を現し挨拶するか否かを決めるのは、劇場側(舞台監督)ではない。観客である。そこを間違えてはいけない。劇場関係者はその辺の呼吸をもうそろそろ認識してもよいのではないか。今回の監督斉藤美穂は他の男性監督とは異なり、こんなに長くカーテンを上げっぱなしにすることはなかったと記憶する。劇場の意向があるのだろうか。まさか、仕事を早く片付けたいために、とりあえず3〜4回ぐらいまとめてレヴェランスさせ、あとは多少の拍手が続いても無視し、サッサと客を帰そうなどと考えているわけではあるまい。よもや、そのようなことは・・・。カーテンコールは、劇場をあとにする観客の後味を形成する。この国の劇場文化が成熟していくうえでも、これはけっして些末な問題ではないことを知るべきだ。