新国立劇場バレエ『シンデレラ』全3キャスト/清新に蘇った振付・演出/米沢唯によって生きられたシンデレラ/本島美和の成長した仙女に感動

新国立劇場バレエ『シンデレラ』を全3キャストで観た(12月15日/16日/18日)。

音楽:セルゲイ・プロコフィエフ
振付:フレデリック・アシュトン
監修・演出:ウェンディ・エリス・サムス
美術:デヴィッド・ウォーカー
照明:沢田 祐二
指揮:エマニュエル・プラッソン
管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団
【キャスティング】
シンデレラ:小野絢子(15日)/米沢 唯(16日)/長田佳世(18日)
王子:福岡雄大(15日)/厚地康雄(16日)/菅野英男(18日)
義理の姉たち:山本隆之 高橋一輝(15日,18日)/古川和則 野崎哲也(16日)
仙女:湯川麻美子(15日,18日)/本島美和(16日)
父親:石井四郎
春の精:五月女 遥(15日,18日)/細田千晶(16日)
夏の精:西川貴子(15日)/堀口 純(16日)/井倉真未(18日)
秋の精:長田佳世(15日)/奥田花純(16日)/竹田仁美(18日)
冬の精:寺田亜沙子(15日)/厚木三杏(16日)/丸尾孝子(18日)
道化:八幡顕光(15日,18日)/福田圭吾(16日)
ナポレオン:吉本泰久
ウェリントン:貝川鐵夫(15日,18日)/小笠原一真(16日)

【初日=15日】の印象は、全体的に踊りが清新に見えたこと。いったんすべてをばらばらにして作り直したかのよう。監修・演出のウェンディ・エリス・サムスの手腕だろう。本作は、この劇場で何度も再演されてきたレパートリーだが、そうしたなかでたまった垢を洗い落としたような新鮮さだった。
小野絢子のシンデレラは一幕の踊り、二幕のヴァリエーション等、快活な動き。だが、二幕のアダージョでは、サポートが伸びやかな踊りを阻害し、せっかく鳴り響いている楽器の振動を背後で止めてしまったような印象を受けた。福岡雄大の二幕のヴァリエーションは、従来のように、ただ思い切りよく踊るのとは異なり、何かを醸し出そうと模索している姿勢が伺えた。まだ、途上にあるようだが。
山本隆之の義理の姉には、感慨深いものがあった。ただ、華やかさはいいとして少し品がよすぎないか。妹を叩くときはもっと思い切って。
この父親役にはいつも不満がある(『白鳥』の家庭教師のときもそう)。立ち居振る舞いはもとより、舞台での存在そのものに血が通っていないのだ。なぜ継続して使うのか理解できない。他からもっと適任者を探すか、カンパニー内ならトレウバエフにやってほしい(王子の友人たちの踊りがすばらしいのでもったいないが)。
四季の踊りも新鮮(西山裕子の春の精は特別だったが)。長田佳世の秋の精はキレキレ。ちょっと入れ込みすぎか。
道化は客席への身振り等にいつも少し不自然さを感じていたのだが、今回はまったくそれがない。八幡顕光の踊りや動きは全体のなかでよく調和が取れており美しく見えたほど。
指揮者エマニュエル・プラッソンのテンポは少したっぷり気味だが(特に序曲およびその主題)、とりあえず丁寧な音楽作りといえる。ただ、部分的にオケが十全でなかったのは残念。
学生団体が大勢入っていた。それ自体はよいのだが、彼女らがあまり拍手をしないせいもあり劇場空間がなかなか温まらない。劇場マナー(舞台芸術は演技者と観客とで一緒に作るものとの認識を含む)の伝授や、バレエを見る動機付けになるような事前の準備はしたのだろうか。ただ席を埋めるためだけの営業は、結局は誰のためにもならないと思う。
カーテンコールについては数日前『セビリアの理髪師』の項にも書いたが、今回も指揮者と監修・演出者を呼んだあと、カーテンを上げたまま三回も挨拶をさせてしまった(舞台監督:大澤裕)。さらに誰もが四回目もやるのかと上を見あげた頃、やっとカーテンが降りてきた始末。下ろすならもっと早いタイミングで。というより、前回も書いたように、レヴェランスはせいぜい2回が限度である(新国立劇場オペラ《セビリアの理髪師》/音楽的求心力が不十分/カーテンコールは舞台と客席の対話である - 劇場文化のフィールドワーク)。
先に【三日目=18日】について手短にメモする。
長田佳世のシンデレラは丁寧で誠実。踊り等は初演時より好くなっていた。菅野英男の王子はいつもながらノーブル(善美)な存在感。いかにも臣民のために尽くしそう。山本隆之の義理の姉は初日より思い切りよくやっていたが、やはり「醜い義理の姉」に徹し切れていない印象だ。一方の高橋一輝ははまり役でとても初役には見えない。
この日は総じて温もりのある『シンデレラ』だった。
オケについては毎回オーボエが「夏の精の踊り」等で、高音から低音域へ移行する際(スラー)ぎこちない。三回聴いてくるとプラッソンの指揮にはいまひとつ物足りなさが残った。
女子中学生の団体が大勢入っていた。1階は16列以降、2・3階バルコニーのすべて、3階の中央ブロック以外のすべて(2階は、3階席に座ったため不明)を埋め尽くしていた。団体については、上記のとおり、事前の準備授業をおこなってほしいと繰り返すしかない。新国立劇場には三つの部門に研修所があるのだから、若い彼/彼女らをアウトリーチとして、学校に派遣したら一挙両得(研修生にとってもよい経験)だと思うのだが。
カーテンコールの最後でナポレオンの吉本泰久がカツラを前方に飛ばと、女子中学生たちは大笑いしていた。いつもながら吉本のサービス精神は素晴らしい。
【二日目=16日】
第一幕で初めて感動した。米沢唯のシンデレラは、動きの一つ一つがどれをとってもシンデレラ(灰かぶり)としての意味を帯び、音楽も新たな(本来の)意味をもって響いてきた。たとえば母の遺影を暖炉の上に飾り、お灯明を上げると、本当に亡き母と対話しているように見(聞こ)えた。箒をパートナーに見立てて踊る際もそう。物乞いの老女が仙女として突然あらわれると「この人は誰だろう」と不思議そうな表情のシンデレラが居る。十二時の刻限について仙女から注意を受けるときも、二人の対話が聞こえるようだった。
古川和則扮する義理の姉はじつに楽しい。かつてのアクリのように突出しすぎることなく、ドラマの枠のなかで活き活きと生きている。野崎哲也のキャラ造形は妹にしては少し積極的すぎるが、可笑しいのでよしとしよう。八幡扮するダンス教師と義理の姉たちとの絡みも面白い。
仙女の本島美和には驚かされた。まさに仙女の腹ができており、踊りにも気品が漂っていたのだ。舞台上での自分の役割をしっかりわきまえ、主役らが活きるよう貢献している。本島の目を見張るような成長に、思わずグッときた。二日目の四季の踊りもみなフレッシュで品がある。
第二幕でシンデレラが宮廷に登場するシーン。王子の手を借りてステップを慎重に降りてくる。舞台手前まで来ると、華やかな宮殿に居る自分をあらためて見出したシンデレラは、初めて王子と視線を合わせる。「手を貸してくれていたのは王子さまだったの?」。驚くシンデレラ。やがて、道化(を介して王子)に踊るよう促され、ヴァリエーションを踊る(シンデレラの踊り)。楚々と踊るシンデレラは、後半のマネージュに至るまで、〝灰かぶり〟としての慎ましさを決して失わない。なんと清楚な美しさだろう。こんなシンデレラの踊りを見たのは初めだ。アダージョでは、終始、王子(厚地康雄)の微笑みに励まされ、そこはかとない喜びを滲ませながら踊る。その終わり近く、二人の気持ちが通い合ったことを証しするように、シンデレラが王子の肩に身体を預ける。そのときの米沢唯はじつに可愛らしい表情だった。また、時計が十二時を告げる際には「ドレスが元のみすぼらしい服に戻ってしまう! どうしよう!」と、あわてるシンデレラ。やがて灰色の服を着た娘が大あわてで走り去っていく。その後ろ姿には、まぎれもなく〝灰かぶり〟の境遇を過ごしてきた娘の悲哀がにじみ出ていた(もちろんこのダンサーは米沢唯ではないのだが)。オケピットに目を移すと、指揮棒に気持ちを込めまくっているプラッソンの姿がそこにあった。明らかに米沢唯の生きた舞台に触発されたのだ。
厚地康雄の王子はロイヤルとしての気品と華やかさがあった。ヴァリエーションでは少し不安定なところも見られたが、終始、シンデレラへの愛情を示す笑顔を絶やさず、相手を活かそうとするサポートで舞台を支えていた。
第三幕の家に戻ったシンデレラは呆然としている。あれは夢だったのかしら。舞踏会で踊った踊りを箒相手に再現してみる。舞踏会では抑え気味に踊ったマネージュは、ここでは思いっきり踊ってみせた。やはりそうか。二幕では、王子を前にシンデレラの多少の気後れや慎ましさを表現した踊り。それが、誰も見ていない家のなかでは何も気にせず思い切り踊る。なんというダンサー(演者)だろうか。(三日目の長田シンデレラも二幕のヴァリエーションは少し抑えめだった。監修・演出の指示なのかも知れない。)ラストの、妃として王子とヴァージンロードを歩くシークエンスでは、いわゆる踊りはほとんどないのだが(むずかしいバランスやリフトはある)、厳粛な趣がひしひしと感じられた。オケが奏でる音楽も、なおいっそう荘厳に響く。二人を慈愛に満ちた表情で見守る仙女(本島)のあり方がまた実に見事。バレエの『シンデレラ』でこれほど感動したことは一度もない。
米沢唯のパフォーマンスには踊りと演技に切れ目がない。ここは演技です、ここはマイムです、ここから踊ります、といった感じは一切ない。そうした在り方に、あるいは違和感を覚える向きもあろう。舞台上のどの瞬間をとっても、役(シンデレラ)を生きている米沢唯がそこに居る。知人とこのダンサーについて話したとき「脱構築」という言葉が出た。たしかに米沢は、アシュトンの作品を脱構築しているといえなくもない。あるいはバレエという芸術そのものを。ただし、本人にそんな意識は毛頭ないはずだ。『シンデレラ』という物語をきわめて精密に読解するように、シンデレラという役を丹念に自分の身体に入れ、その役を舞台でていねいに生きてみた。そういうことではないか。だが、その結果、作品が(あるいはバレエそのものが)少しずら(解体)されたように見えなくもない事態が生じたのである。〝役を演じる〟〝役になりきる〟ではこうした事態は生じないはずだ。監修・演出のウェンディ・エリス・サムスは米沢唯によって生きられた希有なシンデレラにどんな感想を持ったのか。もしアシュトンがこの日の彼女の舞台を見たらどう思っただろうか。
(二日目のカーテンコールは改善されていた。これも監修・演出者から指示があったのかも知れない。)