能「隅田川」+教会オペラ《カーリュー・リヴァー》/ブリテンの教会寓意劇とその原作を連続上演/充実した希有な企画

能の「隅田川」とベンジャミン・ブリテンの教会オペラ(教会寓意劇)《カーリュー・リヴァー》を東京藝術大学の奏楽堂で観た(10月28日)。《カーリュー・リヴァー》はブリテンが日本訪問時に観た能の「隅田川」に触発され作曲した作品。プログラムによれば、今公演は藝大音楽学部が三年間取り組んできた「若手研究者等海外派遣事業」の総仕上げで、本年9月に英国での公演を成功裏に終えたとの由。ほとんど上演されないブリテンの教会寓意劇を、原作の能と連続して観る機会などめったにない。ただ、ネットで最後の一枚をゲットしたため席はかなり後目で、シテがつけていた面やブリテン舞台のセット・衣装等の細部はよく見えなかった。が、音響的はまったく問題なし。

能「隅田川
シ テ(狂 女):関根 知孝
ワ キ(渡 守):宝生 閑
ワキツレ(旅人):野口 能弘
子 方(梅若丸):藤波 重光
笛 :藤田 貴寛
小鼓:曽和 正博
大鼓:國川 純
後見:武田 尚浩・藤波 重彦
地謡:岡 久廣・津田 和忠・浅見 重好・野村 昌司・清水 義也・坂口 貴信

能はこれまで数回観ただけで、どう書いてよいのか分からない。近代の舞台芸術と同様に、見て感じたままを〝不作法〟にメモする。
囃子方地謡が静かに登場し、さらに塚が用意される。やがて、ワキの渡守が登場する。ワキはかなり年輩。はっきりいって声にしまりはないが、声量はかなりのもの。さすがに味がある。ワキツレ(旅人)は若い。まさにワキを固めた布陣か。シテ(狂女)が橋懸かりからゆっくりと登場する。当初、面をつけている所為か、シテの声があまりクリアに聞こえなかった。が、それは地謡が謡っている時で、ソロの部分はまったく問題ない(地謡が下手を向いているのはシテの声をかき消さぬためか)。というか、すぐに、そんなことはほとんど関係ないことが明らかに。立ち居振る舞い、声ともさすがに味わい深く、ノーブル。渡守が昨年亡くなった少年の話を語る条りで、我が子の事と思い至ると、狂女=母は右手をゆっくり面に近づける。涙を払う象徴的な仕草か。ラストでシテの念仏に和して、子方が「南無阿弥陀仏」と唱えるいたいけな声がどこからともなく聞こえる。グッときた。この瞬間のためにすべてがあるのだろう。今回は、子方は声だけで、塚から姿を現さず。ブリテンは、初めは霊が現れる演出を、出国直前には声だけの演出を観たそうだ(プログラム/向井大策)。最後は地謡が「わが子と見えしは塚の上の、草茫々としてただ、しるしばかりの浅茅が原と、なるこそあはれなりけれ、なるこそあはれなりけれ」と謡い終わる。すると、シテはぴたりと動きを止め、ゆっくり向きを変え、元来た下手の橋懸かりの方へ静かに移動し、ゆっくりと、静かにゆっくりと去っていく。この間、静寂。他の演者たちも同様だ。地謡が退場し、さらに囃子方が立ち上がるあたりで、拍手がきた。
久しぶりに能を見たが、とても興味深く、かつ味わい深い舞台だった。静寂で清潔。それでいて、突然、情念が空間を満たしてしまう。が、また、何もなかったかのように静かに消えていく。能のそうした味わいにブリテンも魅せられたのだろうか。

ベンジャミン・ブリテン作曲 教会オペラ(教会寓意劇)《カーリュー・リヴァー》
指揮・Org.:ドミニク・ウィーラー
演出:デイヴィッド・エドワーズ
美術・衣裳:コリン・メイズ
照明:奥畑 康夫
狂 女(T.)  :鈴木 准
渡 守(Br.) :福島 明也
旅 人(Br.) :多田羅 迪夫
修道院長(Bs.):伊藤 純
霊の声(Boy soprano):高坂祐人
合唱・演奏:東京藝術大学《カーリュー・リヴァー》アンサンブル
 T. 吉田 志門・大平 倍大・齊藤 義雄/ Br. 川田 直輝・栗原 峻希
 Bs. 田中 夕也・中山 晃・麓 旺二郎
 Fl. 窪田 恵美/ Hr. 溝根 伸吾/ Va. 伊藤 慧/ Cb. 片岡 夢児
 Perc. 牧野 美沙
 Hp. 景山 梨乃
日本語字幕:向井 大策

舞台はゴミの山。ビールケースとコーヒー豆(?)の空き缶が椅子代わり。修道士ならぬ、ホームレスのような襤褸を着た男たちが、聖なるドラマを上演するとの設定らしい。器楽奏者は白パンに白シャツだが、白いベールを被っており、上演時にはそれを脱ぎ、終わるとまた被り去っていく。ホームレスたちが長いビニールを舞台に拡げ、川に見立てる。渡守(フェリーマン)の福島明也が歌唱、英語の発音ともに出色だった。このバリトン、最近どこかで聴いたと思ったら、上岡敏之新日本フィルを振ったヴェルディの《レクイエム》だ。これも好かったが、今回はそれを遥かに上回った。旅人の多田羅迪夫は声量はあるが時々声がざらつく。狂女(鈴木准)はゴミの山向こうからフルートに伴われて登場。襤褸切れを継ぎはぎしたような派手なキモノに、鍋のような笠を被り、そこにはおみくじを結んだようなびらびらした飾りがたくさん付いている。『ニナガワ・マクベス』の魔女か「卒塔婆小町」(三島)の老婆のよう。鈴木はさすがにブリテンの研究家だけあって、BCJで歌うときより、いっそうモティヴェイションの高い歌唱。初めと終わりのラテン語による合唱はグレゴリオ聖歌のよう。ただ、今回の男性合唱は少し優しすぎたか。情緒に汚染されない、もっとソリッドな声質がほしいところ。オリジナルではラストに死んだ子供の声(霊の声)だけが聞こえる設定だと思われるが、今回は、その幻(ボーイソプラノ)が舞台後方から襤褸の白ずくめで登場し中央手前で歌った。にもかかわらず、まさに霊界からの声のように聞こえたから不思議だ。
器楽の若いアーティストたちはホルン奏者を筆頭にみな達者だ。ただ、総じて楽譜に囚われすぎの印象も。特にパーカッションとフルートは、日本の太鼓や笛のような即興的な感触がほしい(向井氏によればドラムのトレモランドは鞨鼓を模したものらしい/プログラム)。おそらくブリテンは、西洋の記譜法には収まり切らない日本音楽の響きに魅了されたはず。音楽家として楽譜を尊重するのは当然だが、その奥にある、作曲家のイデアはもっと大事だろう。日本人奏者が、日本文化を淵源にもつ西洋作品を演奏するメリットは活かしたいところだ。
デイヴィッド・エドワーズの演出は、新国立のオペラ研修所で《アルバート・ヘリング》を観た記憶がある。今回、この教会寓意劇をホームレスによる設定にしたのはなぜか。修道院長や修道士の特権階級(?)でなくとも、聖なる神秘(秘蹟)は現出しうることを、グローバル化が進み格差がいっそう広がった現代に示したかったのか。
今回、能では子供の幻は出さす声だけの演出にし、寓意劇では、逆にその幻を登場させ、あえてオリジナルとは異なる趣向にした。面白い。また、能の最後では、子供の霊はただ母の念仏に合わせて「南無阿弥陀仏」と唱えるだけだが、一方、ブリテンの霊の声は母に二人称で語りかける( 'God be with you, mother')。公演前にリブレットを読んだときは、後者の方が救いがあると感じた。だが、二つの作品を続けて観てみると、必ずしもそうとはいえない。先に触れたように「隅田川」では子供の幻を出さず、声だけの演出であったが、それでも母=観る者はなぐさめられたであろう。それだけの効果があったと強く感じる。やはり日本は「我と汝」の直接(対話)的な在り方より、「我とそれ(彼/女)」の間接的な暗示を好む文化なのかも知れない。
それにしても、新国立劇場の《ピーター・グライムズ》の字幕は向井氏に監修してほしかった。
新国立劇場オペラ『ピーター・グライムズ』(1)質の高い上演/字幕・対訳には疑問も【加筆】 - 劇場文化のフィールドワーク
新国立劇場オペラ『ピーター・グライムズ』(2)質の高い上演/字幕・対訳には疑問も - 劇場文化のフィールドワーク
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