異文化コラボ/平田オリザ+盗火劇団『台北ノート』とケルティック能『鷹姫』

異なる文化に属するアーティストたちのコラボ。たまたま連続して見たので、併せてメモする。
まずは日本と台湾のコラボ作品台北ノート』の初日から(2月15日 20:00/横浜美術館 グランドギャラリー)。

国際舞台芸術ミーティング in 横浜 2017 TPAMディレクション

平田オリザ + 盗火劇団[東京/台北
台北ノート』
作・演出:平田オリザ
翻訳:田村容子

2017年2月15日(水)・16日(木) 3ステージ

会場:横浜美術館 グランドギャラリー
製作:盗火劇団、青年団
共同製作:台北芸術祭
主催:国際舞台芸術ミーティング in 横浜 2017 実行委員会
共催:横浜美術館
助成:台湾文化部
協力:台北駐日経済文化代表処 台湾文化センター、台北駐日経済文化代表処横浜分処

平田オリザの代表作『東京ノート』(1994)の台北版だ。舞台は「近未来の美術館のロビー」だが、今回は横浜美術館のグランドギャラリー(以前ここでもやったらしい)。タテに並んだ三人掛けの長椅子三つ、その背後に見える長い階段とエスカレーター(公演時は停止)は上階へと続く。空間がとても立体的で気持ちがよい。始まる前から嬉しくなる。役者は「250名以上からオーディションされた20名のキャスト」。日本語字幕は下手側、英語字幕は上手やや後方のパネルに出る。そこで若干上手寄りのやや後ろの席に座った。中国語は分からないが役者はみなうまい。それは分かる。中でも長女役と次男の妻役は、難役といってよい(青年団の役者は難なくやってのけるが)。小声でそれとなく喋り、長い間や沈黙を多用する。日本ではお馴染みの気まずい間や沈黙は、台湾人(中国人)の場合、らしくない? とも思われた。いや、それはこっちの先入観で、状況次第では彼らもこっちとさほど変わらないのか。ただ、他の、より若い役者たちの対話では、沈黙や間が機械が止まっているように感じることがあった。待ち合わせに遅れて来た次女や三男らが元気よくはしゃぐシーンを見ると、やはり平田流の静かな演技は彼らには少し難しいのかも知れない。
対話(字幕)の端々から戦争、難民、徴兵等の単語が聞き(読み)取れる。特に「徴兵」は、われわれより台湾人の方がはるかにリアルに響くだろう。いずれにせよ、本作にさりげなく盛り込まれたテーマ(背景)は、ますますリアルさを増してきている。そこが平田作品のすごいところ。ところで、あの学芸員は台湾へ来て十年という日本人の設定だった。演じる役者の中国語はとても流暢に聞こえたが、日本人なのか。台湾人? いや、あの身体性や歩き方などはどう見ても日本人だ(あとで調べたら台湾で活動している女優で田中千繪)。台湾の役者たちを見ていると、その歩き方や佇まいがじつに伸びやかだ。一方、学芸員役の俳優はヒールを履き、少し猫背気味で腰を落として歩き、何度もお辞儀をする。彼女は台湾や中国で映画俳優として活躍している人だ。言語同様、身体的なあり方も当地風に順応しているはず。とすれば、あの日本人らしい立ち居振る舞いは、意識的に演技した結果かも知れない。今回は、直接言葉を理解できないこともあり、芝居の中身より、役者の文化的身体性に注目させられた。それでも、平田が二十数年前に描いた世界は、そうした異文化の身体をくぐらせても、多少の違和感はともかく、しっかり成立する。人が生きる条件は言語や文化が異なってもさほど違いはないことの証しだろう。


この翌日、日本の能とアイルランドケルト文化)とのコラボ作品、ケルティック能『鷹姫』を観た(2月16日 19:00/Bunkamura オーチャードホール)。
当初フライヤーを見たときはスルーしたのだが、その後、ダブリンでの滞在から帰国した知人に勧められ、考え直す。元々イエイツの詩は好きだったが、詩劇『鷹の井戸にて』は読んでもまったくぴんと来なかった。が、いまなら、能への興味もあるし、BCJのコーラスを聴いてきた耳に、両者の共演がどう反応するか、確かめたくなったのだ。

<能>
◆鷹姫(シテ方
 梅若玄祥能楽観世流シテ方 人間国宝
◆老人(シテ方):観世喜正
◆空賦麟(狂言方):山本則重
囃子方
 笛 : 藤田六郎兵衛
 小鼓 : 大倉源次郎
 大鼓 : 亀井広忠
 太鼓 : 林雄一郎
◆後見
 小田切康陽
 永島充
◆岩(地謡/コロス)
 山崎正
 馬野正基
 角当直隆
 坂真太郎
 松山隆之
 谷本健吾
 川口晃平
 御厨誠吾
 山本則秀
 山本凜太郎

ケルティック・コーラス>アヌーナ
◆男性シンガー
Michael McGlynn マイケル・マクグリン
Francis Flood フランシス・フラッド
Nick Stoppel ニック・ストッペル
Sam Kreidenweis サム・クライデンワイス
Donal Kearney ドーナル・キラーニー
Zachary Trouton ザカリー・トルートン
Jan Kuhar ヤン・クハール

◆女性シンガー
Dominique Cunningham ドミニク・カニンガム
Miriam Blennerhassett ミリアム・ブレナハセット
Andrea Delaney アンドレア・デラニ
Rachel Thompson レイチェル・トンプソン
Sara Di Bella サラ・ディ・ベラ
Hannah Traynor ハンナ・トレイナー


主催:アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団
助成・協力:東京都 協賛:Culture Ireland 協力:朝日新聞社
制作:プランクトン 制作協力:ダンスウエスト 後援:アイルランド大使館

購入が遅れたため席は1F27列。能を見るには少し遠めだが、結果的にはさほど悪くない距離だった。
舞台は薄闇で蝋燭のような灯りが点在し、草月流による枯れ木オブジェが手前に二本、奥に三本、その白肌を浮かび上がらせている。やがて、演者たちが、両袖から舞台へ登場。といっても姿は闇に紛れてほとんど見えない。床をこする摺り足の音が幽かに聞こえるだけ。面をつけた岩たちのコロスらしい。客席の通路から女性シンガーたちが黒の衣裳を纏い、灯りをもって前方の舞台へゆっくり近づいていく。中央の本舞台に岩のコロスたちが陣取り、その後方の段(プラットフォーム)に立つ男性シンガー七名がゆるやかな半円を描いて本舞台を囲む。女性シンガーは本舞台の左右に三名ずつ配される。紗幕が上がり舞台が始まる・・・。
ふたつの文化が意外に合っていたので驚いた。そもそも『鷹姫』(1967)は、イエイツが能に触発されて創った詩劇『鷹の井戸』(1917)に基づく。ケルティック・コーラスは、それを心身ともに外から包み込むように寄り添っていく。そのあり方は絶妙だ。中央で生命の泉を巡って繰り広げられる神話的なやりとりに、風(自然)が反応しているかのよう。男声は、時にモンゴル民族のホーミーのように響き、時に仏教の声明のように響く。前者では、自然(風)が人間の営みを見守るように、後者では、音程が下降していく重い響きで、人間の営みに警告を発しているように感じた。いずれも倍音の渦が観客席まで押し寄せる。途中、イエイツの詩による一曲が女声ソロで挿入された。鷹姫の舞(梅若玄祥)は、華やかというより風格が滲み出る。老人(観世喜正)と空賦麟(クーフリン/山本則重)の対話はけっこうリアルで人間くさい。岩のコロスの地謡に大鼓のきびしい打音が響くとホールの空気が一変する。能管(笛)や地謡が描き出す旋律は、西洋的な均質化された音階のあいだを縫うように行き来する。音楽的には、このような日本の音や響きが独特な能の世界を創り出す。ケルティック・コーラスは、木立を吹き抜ける風や、泉から湧く水(無性子音による)を思わせる「自然の声」と化して、この幽玄世界を外側から包み込む。融合というより、共に個性を失わず共存している感じ。まったく違和感はない。日本の能が、大自然のなかに包まれているさまを間近で見ているような印象だった。能が終わると、ケルティック・コーラス(アヌーナ)だけ舞台に残り、「さくら」と「もののけ姫」を歌った。美しく、自然で、素朴な歌声は身体に染み入ってくる。その意味では、ピリオド楽器が創り出す「古楽」と一脈通じるものがあるかも知れない。マイクを使っているにもかかわらず、そう感じたから不思議だ。