劇団銅鑼アトリエ公演『遺骨』 劇団員の顔見世/想像力の行使を促す

一昨日〈劇団創立40周年記念公演 第1弾&新稽古場杮落し公演〉と銘打った『遺骨』の初日を観た(8月1日)。場所は劇団銅鑼の新アトリエ(上板橋)。
原作:内田康夫/脚色・演出:平石耕一/美術:大田創/衣装:広野洋子

長方形の稽古場を段差がついた三列の客席が四方から囲む。そのため中央の演じる〝舞台〟はかなり狭い。この限られたスペースで、役者たちが次々に登場し退場する。約四十名ほどの異なった世代の劇団員たちが演じる芝居を間近で見る喜びは格別だった。
『遺骨』の話はテレビの浅見光彦シリーズで見た覚えがある。なるほど、戦時の731部隊臓器移植法案等の問題、そこに金子みすゞの詩が絡み、テーマ的にはこの劇団らしい物語だ。ただし、かなり入り組んだプロットだけに、話を追うだけで息切れした。
その理由は、テレビ等の映像メディアと演劇との構造的な差異に関わっていると思われる。前者であれば、多くの場面を重ねて物語を綴る手法が技術的にも効果的にも望ましい。だが後者の場合、そんなことをすれば、しょっちゅう暗転等で場面転換しなければならず、技術的に無理がある。だから、通常、「劇作家は、ストーリーの中で、ある特定の象徴的なシーンだけを抜き出して舞台を構成し、その前後の時間については、観客の想像力に委ねるのだ。逆に、観客の想像力を喚起するような台詞を書くことが、劇作家の技術の一部だと言うこともできるだろう」(平田オリザ『演劇入門』)。今回、平石は、そうしたやり方を踏襲せず、あえて映像的な語りを利用していたようにみえる。ただ、暗転等は多用せず、まさに観客の想像力を積極的に活用し、再現シーンや語りの中身を、その場で〝見立て〟て作り上げていた。黒子=謎の闇彦(鈴木正昭)がドアや墓や台やカモメ等の〝道具〟を運び入れ、持ち去る。テレビやビデオの早送り等を演技で模写する場面は、この意味で象徴的だが、そこから、映像メディアがドミナントな現状への挑戦もしくは異議を読み取ることもできる。映像メディアに慣らされている観客よ、もっと想像力を行使せよ、と。
テレビ等のハイテクをマニュアルなローテクで模倣する趣向は、最近では野田秀樹の『The Bee』やロベール・ルパージュの『ブルードラゴン』等にも見出せる。ただ、両者とも、『遺骨』ほど場面がめまぐるしく転換することはない。公演半ばで場面の多さに疲れ、客席の集中が切れたように感じた。森喜美恵(馬渕真希)や加賀裕史郎(鈴木瑞穂)等がクローズアップされて以降は場面転換を極力減らし、じっくりと対話するシークエンスをもっと設けてもよかったか。劇団員総出演との条件が、脚色に制約を与えていたのは理解できる。だが、話の辻褄を合わせるのに急なあまり、肝心のテーマの掘り下げがおろそかになった点は否めない(この点はhttp://d.hatena.ne.jp/mousike/20120331/1333206056も)。
浅見光彦の舘野元彦はたしかに主役の器。加賀(鈴木瑞穂)と龍満浩三(千田隼生)とのやり取りはかなり見応え(聴き応え)があった。浅見の母役の菊地佐玖子は着物姿で貫禄の演技。山田昭一(真藤誠一)を含め、銅鑼創立メンバーの三男優は、高齢にもかかわらず驚くほど声が大きい。菊地(創立メンバー)の存在感といい、さすがである。刑事の部下役庄崎真知子の喜劇感覚が印象的。演劇工房の山梨信次が扮した石塚住職と団員の土井真波が演じた妙月尼は、それぞれ違った意味でだが、ともに妙なリアリティがあった。他の団員たちもみな個性があり、〝顔見世〟という意味では充分楽しめた。猛暑のなかの公演は出演者やスタッフも大変だったろう。休憩なしの二時間は少し暑く、見る側も・・・。