F/Tの野外劇 カステルッチの「天」/飴屋の「地べた」/維新派の「戯画」/ポレシュの…

フェスティバル/トーキョー12の開催が決定したとのメールが届く。昨秋のF/Tは4つの野外劇を含む6公演を観た。そのうち、ロメオ・カステルッチの作品が私には圧倒的だった。遅まきながらその時の体験メモをアップしたい。
カステルッチといえば、2009年の『神曲三部作』はじつに衝撃的。特に「煉獄篇」(世田谷パブリックシアター)は忘れがたいが、この野外劇はそれとは趣の異なる作品世界だった。

F/Tオープニング委嘱作品—宮澤賢治/夢の島から—ロメオ・カステルッチ構成 演出『わたくしという現象』(2011.9.16)
有楽町線終点の新木場駅から十数分歩き、夢の島公園内にある「多目的コロシアム」に到着。用意した虫除けティッシュで首筋・腕等を塗布。四列で整理番号順に並ばされ、午後7時16分ごろ、会場へ誘導される。入る際、“ハタ”を一つずつ渡されるとの由。当初は、座るためのシートを一枚ずつ配付するといっていたが「旗」?
2メートル以上あるプラスティックの白い筒棒に白い大きなビニールシートの付いた旗を持たされ、真っ暗な「コロシアム」へ入場。草地を踏みしめながら、旗を持ち、ひたすら歩く。円形の草地は周囲が木で覆われ、空にはときおり飛行機やヘリコプターの灯りが過ぎていく。闇の中、整然と置かれた白い椅子ががかすかに見えた。かなりの数だ。あそこに座るのか。だが、最前列の左から四番目の椅子に男がひとりすでに座っている。
やがて、コロシアムを一周したころ、頭上に蛍のような虫が飛んでいるのが見え、共に歩いている人たちと思わず言葉を交わす。後ろを見ると、白い旗を持った人々が同じように黙々と歩いている。白い椅子が並べられた中央部を取り巻くように円形に。やがて指示され立ち止まる。7時40分。20分ぐらい歩いたか。目が慣れたのか照明が変化したのか、当初より辺りの様子が見える。われわれの位置は、並んだ椅子に向かってやや右手。
ほどなく、旗と同じ材質の白いカッパのようなものを着た中年男性(飴屋法水)が、無言で座るよう合図する。「座れってことですかね」「ええ? ここで?」。なるほど、旗をシートに使うのか。千人近い観客たちは、めいめい、その場で旗=ビニールシートを草地に敷いて座る。先の男性は、ひとり椅子に座っていた男に白いカッパを着せフードも被せ、また元の椅子に座らせる。
コロシアムは中央部がやや低くなり、そこから遠ざかるにつれて土地が高くなる、ゆるやかな「すり鉢状」だ。その中央部に、縦横数十脚ずつおそらく数百脚もの白椅子がさほど隙間を空けず整然と並べられている。「Domine deus」グレゴリオ聖歌のような男声合唱が鳴り響くなか、白い椅子が、ひとつ、またひとつと倒れていく。その間も聖歌は流れ、何か軋むような烈しい崩壊音もそこに加わる。倒れる椅子はどんどん増えていき、それらが、右奧の方へ次々に引き寄せられ、流されていく。これは「津波」ではないか。男が座っている左の方の椅子だけが取り残され、あとはほぼすべて、倒壊し、右奧へ流されていった。倒れた椅子がひとつふたつ、津波被害の残骸のように転がっている。
やがて、正面奧の木立からスモークが上がり、光のなかに例の白いカッパを身につけた大勢の人々が現れ、白い旗(シート)を揺らしながら悶えている(終演後配られたちらしには70数名のエキストラが記されていた)。ほどなく、彼らは、われわれの方へ向かってゆっくりと歩いてきて、中央辺りで立ち止まる。いったん後ろを向くが、リーダー(飴屋)だけ振り返り、例の椅子に取り残された男へ近寄り、丁寧に白い服を脱がせる。どう見ても放射能の防護服だ。
いまや、右奧へ流された椅子の残骸は、人骨に見える。その男は小学生ぐらいの少年だった。黒いTシャツに黒いズボン。少年は中央に立っていた集団のなかへまぎれ見えなくなる。その後、少年が二人の女性にシャツを脱がされ、青のペイントを顔や体に塗られている。その間、他の白装束たちは白い旗を持ち、それぞれ別れてわれわれ観客の方に近寄ってきて、無言で立ち上がるよう促す。われわれは指示されたとおり、立ち上がる。
少年は顔から足まで青色に変容し、こちらを向いて中央にひとり立っている。われわれに指示を出した白ずくめたちも少年の方を向き、旗をふる。すると、われわれも、指示されたわけではないのに、旗を持ち頭上にかざし揺らす。風があったため、旗はきれいにはためいた。正面奥の木の下に女性が現れ、旗を大きく振っている。少年はそちらへゆっくり歩いていく。やがて、その木から青い光が上へ伸び、その光はわれわれの頭上を超えて後方の天に向かっていく。視線を木立へ戻すと、もうあの少年はいない。昇天していったのか。
ここで20分の休憩。
これは、宮沢賢治をモチーフに創ったというよりも、東日本大震災原子力発電事故による災厄をモチーフに、被害にあった死者や遺族、原発事故と戦っている関係者たちを野外劇として形象化し、祈りを捧げようとしたものだろう。イメージの造形。美と崇高。レクイエム。賢治の生年には「三陸地震津波」と「陸羽地震」が、没年には「三陸地震」が起きている。その意味では、賢治からえたイメージを造形したといっても間違いではないが。

休憩後の飴屋法水『じめん』は、逐一メモする気力も出ない。そこまで集中して体験するようなものではない。カステルッチの創り上げた芸術としての美や崇高さをまさに「じめん」に引きずり下ろす効果はあった。散文的で破れ目だらけ。いきおいメモも断片化する。

原爆投下を肯定する戦後の昭和天皇のスピーチ/原子爆弾と黒いキノコ雲をかたどったアドバルーン/マットでできた黒い壁/夢の島(ゴミの島)の地面に穴を掘る少年/放射能を研究したキュリー夫人/猿の面を被った黒子たち/「2001年宇宙の旅」の猿の面/少年、白人女性、カステルッチらが着ているのは映画と同じ服?/飴屋法水「僕の父はサラリーマンで…。僕の名前の由来は…」/少年が掘った穴に入り「カステルッチさんに質問があるんですけど」/ロメオ・カステルッチ・・・

「意味」を寄せ集めるのはよいが、そこに芸(art)がないと「意味ありげ」だがじつは何もないということに。
画家山下菊二の昭和天皇を使ったコラージュを想起したが、彼の絵には強度があった。
カステルッチとはミスマッチではなかったか。


ついでに他の2作品も簡単にふれる。
維新派『風景画——東京・池袋』西武池袋本店4階まつりの広場で観た(2011.10.7)。
維新派といえば以前に大阪の南港に設置した特設劇場で『流星』を観たことがある(2000.10.27)。開演前に過ごす「満月屋台村」と天然の夜空を借景にしたセットは本当に素晴らしかった。が、肝心の舞台がはじまると、高まった期待はどんどんしぼみ失望感だけが残った。その後、東京(新国立劇場中劇場)で公演するというので観たのだが、途中で出てしまった(『nocturne』2003.9.9)。

今回は野外劇を含むセット券を購入したせいもあるが、確認したい気持ちから懲りずに出かけた。やはり印象は同じ。
デパートの屋上に設えられたセッティングだけが新味で、中身は私にはつまらない。白い七分袖のシャツに黒い半パンの若い男女が24名。顔と腕は白塗り。隊列を組んでロボットのように機械的に動き、例の尻取りまがいのコトバを発する。個性を削がれた主体性のない若者。『流星』と同様、日本の戯画に見えた。それにしか見えない。あるいは新興宗教のパロディか。教祖(作者・演出家)だけが意志を持ち、あとはその指示に従うだけの人形のような存在。公演中、電車が音を立てて下を通る。右側にはメトロポリタンホテルが見えた。近くのレストランから吐き出される食べ物の臭い。風が強く寒かった。よく続けていられるものだ。


ルネ・ポレシュ『無防備映画都市——ルール地方三部作・第二部』豊洲公園西側横 野外特設会場(2011.9.23)
川の向こうに見えるビルの夜景がきれい。役者(3女優2男優)はみなうまい。が、話はよくわからない。スクリーンに映し出される字幕から、哲学的な言説が俗な話に交じっているらしいことはわかるが。椅子席に高低がないのでそれさえ見にくい。やはり作品が作られた史的・社会的文脈を共有しないと十全に享受するのは難しい。