新国立劇場バレエ「シンフォニー・イン・スリー・ムーヴメンツ」/ジェシカ・ラングの新作ほか【追加】

トリプル・ビル「シンフォニー・イン・スリー・ムーヴメンツ」の初日と二日目を観た(3月18日・19日 19時/新国立中劇場)。【作品を確かめたくて楽日の23日(14時)2階から見た。】

世界初演
『暗やみから解き放たれて』Escaping the Weight of Darkness
振付:ジェシカ・ラング
音楽:オーラヴル・アルナルズ、ニルス・フラーム、ジョッシュ・クレイマー、ジョン・メトカーフ
照明:ニコール・ピアース
衣裳:山田いずみ

【3月18日・23日】
 小野絢子、長田佳世、福岡雄大、八幡顕光、米沢 唯、貝川鐵夫、竹田仁美、若生 愛、小柴富久修 ほか

【3月19日】
 本島美和、湯川麻美子、福田圭吾、古川和則、堀口 純、丸尾孝子、五月女 遥、池田武志、宇賀大将 ほか

カーテンが上昇し途中で止まると、舞台にはグレーのコスチュームに身を包んだダンサーたちの横臥した姿が垣間見える。さらに、柄を外した〝ぼんぼり〟のような楕円体【より正確にはスプリングを四角いドーナツ状に繋いだような大小】の灯りの数々が、彼らの身体を数十センチほど上方から見おろすように浮かんでいる。ああ、と思った。これは波に浚われ海底で死にゆく人々の表象ではないか。幾多の浮遊する灯りは、身体から抜け出したばかりの霊魂では? 【やがて彼らは奥の方へごろごろと転がっていく。】複数の灯りは上方で留まり、月明かりのように舞台を穏やかに照らしている。これらの霊魂たちは、おそらく愛する人々への断ち切れぬ念いややり残したことへの未練などから、しばらくその場に滞留するのだろう。だが、最終的には「暗やみ」(the Weight of Darkness)から脱し、光の世界へ「解き放たれて」いく(Escaping)。
作品は5部から成り、上記の冒頭部に続くIIではピアノとヴァイオリンによるペルト風の音楽のなか、四人の男女(二つのペア)が踊る。奥の黒幕が床から1メートルほど上がっており、その結果できた帯状の隙間から〝向こう〟の光が見えている。その〝彼岸〟で踊るダンサーの顔は、こちら側(此岸)からは見えない。男女の対となってこちらで踊り、また、女性があちら側へ赴きこちらからは顔の見えないダンサーと踊って、往還する。臨死における此岸と彼岸の対話か。【最後に男女が此岸の下手で折り重なると、真上の灯り(霊魂)が降りてくる。さらに二つの灯りが降下してIII部へ。】IIIはシロフォン(?)の音楽に合わせ、三人の男がコミックリリーフのように快活に踊る。IVはプリペアド・ピアノのような響きの音楽。奥の黒幕と床との隙間から覗く、女性たちの脚のダンス。ユーモアとコケットリー。灯りの点いた〝ぼんぼり〟のチュチュを着けた女性三人も交え、幕のこちら側へ移動し、踊る。【まるで天使のよう。】彼女たちの踊りも明るい。「天国よいとこ一度はおいで」と誘っているのか。ラストのVではピアノにチェロの憂愁なメロディー。互いに寄り添い励まし合う人々。最後に奥の幕が完全に上がり、舞台に光が充溢する。光の彼方へ向かって全員が歩んでいく【あるいはごろごろと転がっていく】。そのなかを「解放」の喜びに走り回るダンサー。〝ぼんぼり〟たちは下方へ降りてくるが、もはや灯りは点っていない。【あるいは点っていてもより明るい光のなかでそう見えない。】「救い」を感じさせる美しい幕切れ。
初日は10列目のセンターブロック左寄りで見た。少し近すぎたが、踊っているダンサーの識別はせず作品自体に集中するよう心がけた。二日目は12列目の中央からだが、作品の印象は変わらない。振付のジェシカ・ラングは、日本人ダンサーの身体を用いて創作するとなれば、三年前この国を襲った災厄を意識せざるをえなかったのだろう。優しい光を放つ和の趣きの灯り(ぼんぼり)は、イサム・ノグチ(1904-88)の「AKARI」シリーズを想起させる。岐阜提灯の復興と普及への助言をきっかけに制作したノグチは、明るさと軽さ(light)を同時に備えた空間彫刻と見做していたようだ(『イサム・ノグチ――その創造と源流』)。マーサ・グレアム(1894-1991)とはコラボ関係のあったノグチである。グレアムの孫弟子に当たるラングの創造性を刺激したとしてもなんら不思議ではない。
突然向こう側へ連れ去られた人々。〝鎮魂〟というより、なぜか〝供養〟とか〝成仏〟といった言葉が浮かぶ。セットの灯りが盆提灯や灯籠を連想するからか。個人的には、エルフリーデ・イェリネクの連作『光のない。』三浦基演出(2012)、『光のない。(プロローグ?)』宮沢章夫演出(2013)や、ロメオ・カステルッチ構成・演出『わたくしという現象』(2011)、深津篤史作・栗山民也演出『珊瑚囁(さんごしょう)』(2009)等に連なる作品として位置づけられる。いずれも東日本大震災阪神・淡路大震災を扱った演劇だが、カステルッチの作品(野外劇)は、ラング同様、言葉は使われていない。
『暗やみから解き放たれて』はぜひ東北で上演して欲しい。他のどこよりも本作を必要としているはずだし、より高い感度で受け容れられると思うから。
【調べてみるとI II Vで使われた音楽の出典は、オーラヴル・アルナルズのアルバム『...And They Have Escaped The Weight Of Darkness』(2010)で、タイトルの由来もここだった。】本作は2016年3月に再演された。

『大フーガ』Grosse Fuge
[初演:1971年]
振付:ハンス・ファン・マーネン
音楽:ルードヴィヒ・ファン・ベートーヴェン
装置:ジャン・ポール・ヴルーム
衣裳:ハンス・ファン・マーネン
照明:ジャン・ホフストラ
ステージング:メーア・ヴェネマ
バレエミストレス:レイチェル・ボージー


指揮:アレクセイ・バクラン
管弦楽新国立劇場プレイハウス・シアターオーケストラ


【3月18日・23日】
 長田佳世、本島美和、湯川麻美子、米沢 唯
 菅野英男、福田圭吾、古川和則、輪島拓也

【3月19日】
 小野絢子、堀口 純、丸尾孝子、若生 愛
 マイレン・トレウバエフ、福岡雄大、小口邦明、清水裕三郎

袴にベルトを着けた上半身裸の男(オス)4人と下着姿の女(メス)4人のグループが各々ディスプレー(誇示行動)を経てペアリングへと到るプロセス【男女の戦い(大フーガ)から平安(カヴァティーナ)へ】を、男女ともにマッチョな動きで表出する。「大フーガ」の終わりごろ男は袴を脱ぎ、「カヴァティーナ」では各ペアの交わりを経て社会(共同体)を作る。ラストシーンでみなが集団で横になる(眠る)なか、独りの女(長田・小野)が立ち上がる。別のオスを探しに行くとでもいうように。男(菅野・トレウバエフ)がそれを制して幕。内容とベートーヴェンの音楽とのミスマッチが面白い。黒いブリーフ姿の男がそのベルトを掴んだ女を引き摺る動きは、男女の主従(養い・養われる)関係を想起させるが、掴んだ場所が場所なだけに意味深。初日は生な感触のみでよく分からなかったが、二日目を観てどういうことかよく分かった。後半の両腕を上げて袖へ走り込む動きは『ペンギンカフェ』(1988)で動物たちが酸性雨に逃げ惑う動きと同じ。あれはこの作品からの引用だったのか。演奏は、バクラン指揮の新国立劇場プレイハウス・シアターオーケストラ。このオケはフリーの寄せ集めなのか。中劇場は音響がよくないせいもあるが、あまり鮮烈な響きはしなかった。【楽日は音が届きやすい二階で聴いたせいか、よりまとまりのある整った響きだった。】

『シンフォニー・イン・スリー・ムーヴメンツ』Symphony in Three Movements
[初演:1972年]
振付:ジョージ・バランシン(1904-83)
音楽:イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)
ステージング:ベン・ヒューズ


指揮:アレクセイ・バクラン
管弦楽新国立劇場プレイハウス・シアターオーケストラ


【3月18日・23日】
 長田佳世、小野絢子、米沢 唯
 八幡顕光、福岡雄大、菅野英男 ほか
 第二楽章パ・ド・ドゥ:小野絢子 福岡雄大

【3月19日】
 五月女遥、小野絢子、米沢 唯
 林田翔平、福岡雄大、菅野英男 ほか 
 第二楽章パ・ド・ドゥ:小野絢子 福岡雄大

音符が踊っているような在り方とは少し違う。空間を鑿で切り込んだような立体性。隊列の妙も尋常ではない。第二楽章のパ・ド・ドゥはなんといったらよいか。男女の身体が、見たこともないような絡み方を次々に見せる。特に首と首の接触。見ている方も普段まったく使わない筋肉が刺激されるような、そんな踊り。小野絢子は細かなニュアンスを出すのがじつに巧い。福岡雄大も身体能力が高い。二人は舞台上でのパフォーマンスのレベルを一段上げた印象。まさにダイナミックなバレエ。初日の長田佳世は本格的で強度の高い踊り。八幡顕光の活き活きとした動きは見ていて気持ちがよい。二日目の五月女遥は身体が撓るような踊り。まさにバレエの快楽がここにある。昨年の「Side Effect」(福田圭吾)を想い出した。林田翔平の成長は目を見張るばかり。上背がある分いっそう見栄えがする。米沢唯は物語バレエだと水を得た魚のような自在さを発揮するが、プロットレスだと、音楽を追いかけるように見えるときがある。彼女はダンサーというより役者に近いのかも知れない。ストーリーのない振付作品をどう踊るか。模索しているような印象だ。【楽日はよりスムーズな動きに見えた。】

楽しいトリプル・ビルだった。未知の作品に出会う喜びは格別である。感覚が、脳が刺激される。だが、初日は空席の多さに衝撃を受けた。二日目はさらにひどく7割まで埋まっていたかどうか。【初日は7割どころか4割という話も聞いた。もしそうなら、二日目は3割? 楽日は上から見ると本当にがらがらでダンサーたちが気の毒だ。】劇場の営業や広報には、新しい観客を開拓すべく、一層の工夫と努力をお願いしたい(ただし、客席を埋めるだけの安易な学校団体誘致は、考えものである。動機付けのない観客をいくら増やしても、劇場文化の発展と成熟にはほとんど寄与しない)。