日本へのオマージュ ビントレーのバレエ『パゴダの王子』

新国立劇場のホームページによれば、舞踊部門の芸術監督は2014年9月から大原永子(68)が就任するとの由。これは、デイヴィッド・ビントレー現芸術監督(2010年9月〜)があと二年で辞めることを意味する。やっと真っ当なキャスティングを期待できると思った矢先だけに、たいへん残念だ。大原氏にはレパートリーはともかく、キャスティングだけはビントレーのまともな、すなわち不条理でも理不尽でもない路線をぜひ受け継いでほしい。
昨秋ビントレーは、震災および原発事故のため意気消沈した日本を励ますべく、素晴らしい作品『パゴダの王子』をプレゼントしてくれた。一般観客の反応は悪くなかった。だが、ビントレーの贈りものをまともに受けとめた批評家(そもそもこの国にバレエ批評家はいるのか)はほとんど見当たらず、この国のバレエ文化の貧困を象徴する結果となった。彼が再契約しなかったのは、才能豊かな振付家であるビントレー自身の今後を考えれば当然かも知れない。遅ればせながら、『パゴダ』の公演直後に走り書きしたメモを以下に転記したい。

新国立劇場でビントレーの『パゴダの王子』を全キャストで観た(2011.10.30/11.1/11.5)。初日の開幕後、日本の宮廷衣裳(キモノ・コスチューム)を着たダンサーたちが群舞を踊ったとき、歴史的な瞬間に立ち会っている歓びと感慨を味わった。歌舞伎で見るような空色のキモノをまとった身体が飛び上がり回転し着地する(トゥール・アン・レール)。優美で美しい。ビントレーがやろうとしたのはこういうことだったのか。こころが動いた。
レイ・スミスの美術も歌川国芳等の浮世絵や切り紙とイギリスのオーブリー・ビアズリーウィリアム・モリスを共存させ、紙の質感を出しての舞台創り。モリス等のイギリス文化をフレームに使い、内側に国芳等の日本文化をはめ込む趣向。ビントレーの異文化(日本)への包容力を表すメタファーになっていた。これらの美術や衣裳と振付がブリテンの音楽と実によくマッチし驚いた。
小野絢子、福岡雄大、湯川麻美子らメインのダンサーたちもよく踊り演じた。湯川のエピーヌは大きく力強い踊りを全幕通して継続し、舞台に最大限の貢献。エンペラーの堀登は役にぴったり。三幕で幽閉されたエンペラーが背景の富士山にしょんぼり座っている姿がなんともユーモラスでペーソスも漂う。
最後に、人間の姿にもどった王子と桜姫、それに父親のエンペラーが杖(棒)を使って四人の王たちと戦う場面は印象的だ。銃や剣をもつ彼らに木製の杖で勝てるわけはないのだが、閉じた国の王子(牛若丸を思わせる出で立ち)たち家族は、舞のような美しい様式美で、開国を迫る〝夷狄〟の飛び道具をモノともせずに打ち負かす。これは皮肉ではなく、ビントレーによる「日本へのオマージュ」であることは明かだ。四人の王たちの衣裳は、特に中国とアフリカには少々疑問があるし、桜姫の衣裳は変化が乏しく少し物足りない。東フィルは金管が楽譜どおりに響かないところもあったが、予想よりはよかった。カーテンコールでビントレーは感極まっているように見えた。どんな感慨があったのか。

11月5日(土)米沢唯はメリハリのあるパフォーマンス。踊りの充実。役を生きる(演じるのではない)。菅野英男は見事なパートナーシップ。米沢への献身。パートナーへのスマイルは舞台に生気を与え、観客には幸福感を届ける。ソロもなかなかのもの。2階バルコニーから見ると、照明の暗さが気になる。特に第一幕。オケはやはり十全でない。特に金管。うしろに学生団体が入っていた。幼いので中学生かと思いきや、高校生とのこと。上演中にひそひそ話していて気になった。アテンダントに注意するようお願いしたのだが・・・。学生団体を呼ぶのはいい。が、ただ席を埋めるだけの呼び方はやめてほしい。彼らにはそれなりの動機付けを与える工夫をぜひ。

11月6日(日)第2幕での王子の語り——コール・アングレのソロのなか白服の王妃に扮する川村真樹が子(王子)を虐待しトカゲに変えるシーンは、夢遊病マクベス夫人が過去の犯罪行為(王の殺害)を反復するシーンを想起させた。川村の無意識の怖さが出た場面。

ぜひもう一度早い時期に観てみたい。できればビントレーの任期中に。