瀬山亜津咲がさいたまゴールド・シアターに振付・演出した〝ダンス公演〟を観た(8月15日 14時/彩の国さいたま芸術劇場 大練習室)。
【ザ・ファクトリー3】
WORK IN PROGRESS(ワーク・イン・プログレス)
演出・振付:瀬山亜津咲(Tanztheater Wuppertal Pina Bausch ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団)
出演:さいたまゴールド・シアター
主催・企画・製作:公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団
瀬山はピナ・バウシュの方法論を用いて舞台を作り、結果、きわめて質の高いタンツテアター(Tanztheater / dance theatre)が現出した。WORK IN PROGRESS(創作途上の作品)とはいえ、私が見たピナのどの作品よりもじかに響いてくる。素材(ダンサー/役者の身体)が観客のわれわれと地続きだからだろう。だが、瀬山亜津咲のコリオグラファーとしての才能なしに、これほど豊かな成果はありえない。瀬山は平均年齢74歳の身体に刻まれた〝生の歴史〟を丹念に掘り起こし、それをタンツテアターとして再構成した。ダンスとは、からだに刻印された歴史(生)の形象化であることを、瀬山とゴールドの役者たちから教えられた。内側に起源を持つ〝かたち〟は、外から与えられたそれと比べ、圧倒的に説得力があり、自然で、しかも美しい。瀬山は「それにしてもゴールドの皆さんは本当に美しい!!!!!」と言っているが、舞台を見ると「!」を五つも附した気持ちがよく分かる(プログラム)。瀬山自身、ピナの方法で自国の〝老いたダンサー〟たちと舞台を作りながら、彼らから引き出される豊かさや美しさに驚いたのだろう。その「美」や「豊かさ」を見出した点にこそ瀬山のかけがえのない才能がある。
地下2階の大練習室はオケ用だろうか。客席はフロアを見下ろす階段状に設置。左右の壁際に並べられたパイプ椅子の廻りにはダンサー(役者)たちの私物が無造作に置かれている。いかにもリハーサル室といった風情。客席に近いフロアの中央にもパイプ椅子がひとつ。下手から小柄な初老婦人が湯飲みを持って現れ、その椅子に座る。とても穏やかな表情。時折ゆっくりとお茶を飲む。やがて、湯飲みをフロアに置き、手のダンスを始める。とても気品があり、きめの細かなダンス。次に、ダンサーたちが小学生時代を再現するように行進して一列に並び、一人ずつ発言していく。「廊下を走ってはいけません」とか「・・・してはいけません」と。校則あるいは社則? ただ、ひとりの男性は「先生にお話しするような夢は特にありません」と、ある意味、(子供時代の教師の)問いを否定する。「キンさん」と呼ばれるこの男性はたぶん遠山陽一(77歳)。彼は、全員で片脚を上げてバランスをとるときも、女性陣から離れて奥の壁に身体を預け、「こうすりゃ簡単だよな」とかなんとか言いながら、男たちを先導してズルをする。だが、この愛すべき〝ひねくれ者〟は、後半で、家がとても貧しかったこと、それでひもじい思いをしたり遠足にも行けなかったこと、中学を出た後は働きながら夜学へ通ったこと、選挙権を得たときは・・・、今でも政治活動に関わり、週に二回早朝に機関誌(『赤旗』だろう)を配っている等々。そう告白し、後ろ向きに座っていた他のダンサーたちに加わる。その瞬間、こう思わされた。これらのダンサーたちはみな、キンさん同様、その身体にはそれぞれ長い年月を生き抜いてきた人間の〝磨かれた魂〟が宿っているのだと。その後、全員まえを向き、冒頭でソロを踊った女性を先頭に、片手をゆっくりと横に持ち上げる動作から、ダンスのユニゾンが始まる。このうえなく優美なダンス=からだ。まさに〝磨かれた魂〟の形象化を見るようだった。
他にも、高齢女性が狂ったように踊り出すのを、三人の若い男性がその動きを察知して介助する〝介護ダンス〟(例によって、ネクスト・シアター等から3名の若者が加わり、ゴールド・シアターの好さがいっそう際立った)。『カフェ・ミュラー』のヴァリエーション(パロディ)らしいが、ちょっとグッときた(いまの日本の状況が照射されたからか)。男性たちの頭をスイカに見立て、目隠しをしてスイカ割りを断行する女性。仲人好きと思われる上品な言葉遣いの女性がお見合いの席を仮構するシーンは客席からの参加もあった。何組かの男女がソーシャルダンスを踊るなか、上手の地べたに座り、毛糸を巻きながら喫茶店(?)の支払をどちらが払うかで譲り合う一人芝居を名古屋弁で続ける女(たぶん田内一子/67歳)。『ルート99』(2011年12月)では印象的なシャーマンを演じた最高齢の重本惠津子(87歳)が腕を大きく振り上げ強い声で歌ってみせる場面等々・・・。
どのシークエンスも、瀬山の問いかけによりゴールド団員たちから、個々の人生から引き出されたもの(演技)だろう。選曲も好いし、構成力も大したもの。〝Work in Progress〟ということで、大きな統一テーマは掲げられていない。だが、隠れたテーマは「ルーツ」だったのかも知れない。この言葉が公演中に二度ほど聞かれた(最後には85歳の高橋清が浪曲をひとくさり唸った後、これはラジオで聞き覚えたにすぎず「ルーツなんていい加減なものだ」と舞台自体がテーマを否定して終わるのだが)。瀬山は黒子として下手の椅子の背後を這いずり回り、高齢者の背中を叩いてきっかけを出す。その仕草から、ゴールドの団員たちへの愛情が滲み出ていた。ある女性ダンサーが途中で「あずさ命」の短冊を掲げたが、自分たちのよさを引き出してくれる瀬山への信頼はそうとう厚いようである。
カンパニーのメンバーに質問やテーマを投げかけ、それに応じるダンサーたちの即興演技をメモしていく。膨大な応答を取捨選択してコラージュし、舞台として構成する。ピナのこの創作方法は1978年に確立したらしい(ヨッヘン・シュミット『ピナ・バウシュ――怖がらずに踊ってごらん』)。質問者と被質問者の関係は当然ながら精神分析を思わせる。そうなれば、ピナが分析家でダンサーたちが患者ということになるが。ピナの作品を初めて見たのは1999年に彩の国で上演された四作からに過ぎないが、それ以降、彩の国をはじめ新宿文化センターや国立劇場等へせっせと足を運んだ。当初は濃厚なドイツ的退廃美に引き込まれ強く興味を唆られたが、次第に、開かれているような身振り(ダンサーたちが客席へ降りて対話的な動作をすることがしばしばあった)とは裏腹に、非常に閉じた感触(実際はポーズだけだった)が気になり始めた。その意味では、〝マリオネット遣い(ピナ)と様々な人生を抱えたマリオネット(ダンサー)〟という浅田彰の比喩は実感として腑に落ちる(鼎談「ピナ・バウシュの強度」渡辺守章・石光泰夫『ユリイカ――特集ピナ・バウシュの世界』1995年3月号)。ダンサーたちは、われわれ観客には目もくれず、ピナ・バウシュ(精神分析家=マリオネット遣い)ただひとりに向かって踊り演じているような、冷え冷えとした違和感が残ったのだ。
翻って、瀬山が演出・振付した今回の舞台は、ピナ作品とは異なり、客席に開かれていた。もちろん、完成態ではなく〝Work in Progress〟であるためにそうした印象をより強めた面もあろう。だが、私は完成作品でもこの点は変わらないものと確信する。来年予定されている本公演がとても楽しみだ。