別役実『やってきたゴドー』 「いわゆる」をめぐって

5月25日(金)俳優座劇場別役実『やってきたゴドー』を見た。
演出:K. KIYAMA/美術:石井みつる
五年ぶりの再演らしい(初演は未見)。いうまでもなくベケットのパロディだ。あれだけ待っても来なかったゴドー(吉野悠我)が、ついにやって来た。だが、エストラゴン(林次樹)もウラジミール(松本光史)もまったく驚かない。それどころか、来たことに気づいた風もないのだ。二人は「母」?(新井純)や「子供」?(女部田裕子)のことに気を取られ、それどころではない。キリスト教文化圏で「待っても待っても来ない」といえばキリストの再来およびそこから実現されるであろう「救済」を誰もが想起する。だが、この国には、かくまで到来を待ち望む対象などあるのか。本作は、七字英輔がパンフレットに書いているように、「待つ」という行為がさほど切実とはなりえない「日本的風土」への「批評」かも知れない。他に、受付嬢がふたり(橋本千佳子・宮内彩地)唐突に登場し、受け付けるのだが、何のための受付かあまりはっきりしないまま、つまり、受付の形式のみが強調される。これなども、内容(中身)よりも形式(入れ物)に固執する「日本的風土」を風刺したものか。
本はよいし、役者も悪くない。吉野のとぼけたゴドーは頬を弛ませるし、ラッキー役の三谷昇は別次元の存在感。ポゾーを演った児玉泰治はまさにポゾーだったし、女1の新井純はじつに好い女優だと思う。
が、なぜか「たるい」「ゆるい」印象が拭えない。何に対して「ゆるい」のか。たぶん、いまここでわれわれが生きている「現実」に対して。いろいろと腐心して作られた舞台だということは分かる。だが、そこで目指されているのは、いわゆる別役的世界の再現に過ぎないのではないか。「いわゆる」ではなく、この現実に鋭く切り込むような舞台を見たい。そのためには、「いわゆる別役的世界」はいったん忘れた方がよいのかも知れない。
客の多くはおそらく別役と同世代。若者の姿はほとんど見ない。昨年の『同居人』の際もそうだが、観客のほうも「昔の感動をもう一度」確認するために来ているのかも知れない。だが、昔といまでは現実が異なる。いま上演することの意味・意義を考え抜くことなしに上演すれば、博物館の陳列品にしかならない。かつて吉本隆明が使った言葉をもじっていえば、現実を引っ掻きえない舞台は空疎である。いまここと切り結ぶ視点から本を読み直し、別役作品に新たな血を注ぐ「若い」演出家はいないものか。