演劇公演『サロメ』 官能性の不在

新国立劇場オスカー・ワイルドの『サロメ』を観た(6月2日/中劇場)。
翻訳:平野啓一郎/演出:宮本亜門/美術:伊藤雅子

白を基調にしたモダンなセット。上方に大きな鏡が設置され、舞台上手の警備モニターが宴会場の不機嫌なサロメを捉える。舞台と客席を壕のように穿つ深い地下牢には水が張られ、クライマックスでは血の海が舞台一面を浸し、その深紅が上部の鏡に映し出される。他にもヘロデらが纏うヨウジヤマモトの赤いマントや黒のギャバスーツ等、セットや道具立てが潤沢に設えられていた。足し算で貼り合わされた種々のディヴァイスは、如何せん、ひとつの方向に収斂することはない。結果、演劇の相乗的な喜びをほとんど感じることなく終わってしまった。
奥田瑛二(ヘロデ)や麻実れい(ヘロディア)、山口馬木也(若いシリア人)等、個性豊かな役者が大勢出ているのだが、彼らの才能が活かされていたとはいいがたい。多部以外みな演技がどことなく不自由で確信が持てないまま舞台に乗っているように見えた。
新訳を担当した平野啓一郎は、福田恆存訳への批判から出発したようだ。「福田訳を何度読んでも、ヘロデがどうしてあそこまでサロメに魅了されるのか、サロメのチャーミングさがいまひとつ感じられない。それは、官能的な大人の女性としての魅力が念頭にあったからではないか。本当のサロメの魅力は少女らしさにある。それが今回の翻訳の肝だ」(プログラム) 。
おそらく演出家は平野の「翻訳の肝」を軸に演出しようとしたのだろう。サロメ多部未華子を起用したことがそれを物語っている。「子供でありながら官能的、子供だからこそ残酷という二重性」(平野)を出すべく、多部は体当たりで演じていた。だが、「子供だからこそ残酷」な少女は現出したが、もう一方は感受できなかった(七つのヴェールの踊りはあれでよいのか)。サロメが他の人物とうまく噛み合わなかった理由はそこにもある。
成河(ソンハ)はマッチョでないヨカナーンをそれなりに出していた。が、小柄で細見の彼が少女と絡む場面はどこか漫画のように見えた。そもそも、奥田扮するヘロデが「どうしてサロメに魅了されるのか、サロメのチャーミングさが」私には「いまひとつ」どころかまったく分からなかった。ロリコン? 奥田の演技にそんな素振りはなかった。(予言者ヨカナーンが告げる「死の天使の羽ばたく音」が、俗悪の権化たるヘロデにだけ聞こえる場面の演出など、あまりに平俗。)サロメに惹かれる若いシリア人(山口)も同様だ。ヨカナーンに興味を抱くサロメに嫉妬し、思わずサロメにピストルの銃口を向けるが、そのシリア人に別の兵たちがライフルの照準を合わせる。サロメのヨカナーンに対する欲望がシリア人の臨界点を超えた途端、銃口をみずからの頭に向けて自害する。ここだけみれば、悪くない演出だ。だが、台本(福田訳)から読みとれるバタイユ的なエロティシズムが立ちのぼることはない。そもそもこの「少女らしさ」は若いシリア人が死を賭するほどの熱い視線を向ける「魅力」たりうるのか(少なくとも山口馬木也の身体は「魅力」と感じていなかった)。そんな若いシリア人を嫉妬から絶えず諫めるヘロディアの近習/侍童(内藤大希)には同性愛的感情が見られるが、今回の演出では明確にしなかった。
要するに、演出に筋が一本通っていないため、部分的に好いところがあっても、バラバラな印象を与えてしまう。あの手この手で演出するのはよいが、すべては台本をしっかり読み込んだうえでの話だろう。翻訳については、活字を読んでいないため断定的なことはいえないが、上演を見る(聴く)かぎり、発せられた言葉に切れ味や「官能性」は感じられなかった。私には福田恆存の詩的散文がなつかしい。