文学座アトリエ公演『NASZA KLASA ナシャ・クラサ』 異なる話法の語り分けについて

5月26日(土)文学座アトリエで『NASZA KLASA ナシャ・クラサ 私たちは共に学んだ——歴史の授業・全14課』を観た。作:タデウシュ・スウォボジャネク/演出:高瀬久男/訳:久山宏一+中山夏織。休憩を挟んで2時間40分。
刺激的な舞台だった。ポーランド人とユダヤ人。共に学んだ同級生たち(NASZA KLASA)が、ソ連ナチス・ドイツによる占領を契機に、過酷で複雑な歴史の現在(いまここ)に巻き込まれていく。
まず、もっとも興味をそそられたのは、役者がおおよそ二種類の台詞を巧みに語り分けていた点だ。
ひとつは、他の登場人物とのやりとりに用いる「対話」の台詞。もうひとつは、内的な心情や思考を言語化した「傍白」もしくは「独白」のそれ。
これら二種類(傍白と独白を区別すれば三種類)の使い分けはシェイクスピア以来、古典劇ではお馴染みの約束事だが、『NASZA KLASA』ではまったく異なる効果を発揮していたように感じた。
シェイクスピアなどでは、状況によって、ここは(他の人物とのやりとりだから)対話、ここは(他の人物が居るのに聞こえていないので)傍白、(舞台には他に誰もいないので)独白、と観客にはっきりわかるよう配されている。ところが『NASZA KLASA』の場合、本を見ていないのではっきりしたことはいえないが、「対話」と「傍白」が瞬時に入れ替わるように構成されていた。
歴史の「いまここ」で相手に発する台詞の方は、強い感情を喚起する激しい調子で発話されることが多かった。生き残るための生死を賭けたやりとりだから当然だが(役者の絶叫を聞いていて、ふと、かつてのシェイクスピア・シアターを想い出した。彼らもこのアトリエが出自だったはず。苛烈な歴史の強度を出すためには強い声が有効なのは理解できるが、もう少し、声量のレンジを整理したほうがよかったか)。一方、「傍白」の方は、前者の絶叫に近い調子とは対照的に、主として冷静かつ知的な発声法が用いられていた。役者たちがこれらの発話を舞台上で他者と対峙しつつ瞬時に使い分けていく。これにはぐいぐい引き込まれた。
ところで、後者の「傍白」は、内容からすれば当事者が歴史の「いまここで」内的に感じ考えたことを言語化し発話したものに違いない。が、最初、舞台を見ていて、当事者自身がその出来事をのちに「過去」として振り返り省察しているように感じた。というか、作者が俯瞰的に説明するナレーション(地の文)のように。結果、われわれ観客は、歴史の現在(いまここ)を目の当たりにしながら、それを過去の出来事として俯瞰的に見る視点を同時に与えられたような印象だ(歴史のなかに作者の解釈がそうとは気づきにくいかたちで忍び込んでいたともいえるが)。

シンプルなセットもたいへん気に入った(美術は島次郎)。歌や合唱を交えて(学校とくに小学校には歌は付きもの)教室の机と椅子だけで、さまざまに「見立て」て演じられる。虐殺やレイプなど暴力的な行為が何度も繰り返されるハードな内容にもかかわらず演劇としての喜びが強く感じられたのは、そうした舞台創りが功を奏したからだろう。
いったん死んだ同級生が舞台上に残り、生き残った同級生を見守る、あるいは、『マクベス』の亡霊のように自分を殺した同級生の前に現れる。早々とアメリカへ移住したアブラムが、終始、舞台の端に現前している点も含め、こうした設定(演出)により、人間が生きているコンテクストは生者だけで成り立っているのではないことを、あらためて確認させられた。

適材適所に配役された舞台を見るのは実に気持ちの好いものだ。なかでもドテを演じた牧野紗也子は過酷な生から花の芳香を匂わせていた。メナヘムの亀田佳明は声・身体ともに自在な役者で、可能性を感じさせる。アブラム役の釆澤靖起は冷静ななかにも温もりを感じさせる語り口に、もっとも長く生き残ることになるある種の超越性が出ていた。そのアブラムは晩年に人生を振り返る幕切れで、感謝を込めてみずからの子孫の名を次々に口にする(旧約聖書を想起)。その淡々と語られるユダヤ名を聴きながら、なぜか胸が熱くなった。内容からすれば、ほとんど救いのない悲惨な話だが、アブラムによる慈愛に満ちた固有名の発話には「救い」のようなものを感じた。高瀬久男の演出を観るのは初めてだが、この公演での果敢な挑戦に敬意を表したい。

今年はたまたま、9.11に発する報復の連鎖から作劇された野田秀樹の『The Bee』英語版と日本語版、パレスチナ人による自爆テロを扱ったエリアム・クライエムの『負傷者16人』を観た後、ポーランドの複雑な歴史を描いた『NASZA KLASA』に出会い、いろいろと考えさせられた。いまの日本は、こうした厳しい現実(歴史)と向き合った「新しい」演劇を必要としているのかも知れない。日本の現実とじかに向き合った日本の作家による新しい演劇作品を早く見てみたいものだ。