太陽劇団『金夢島』2023

太陽劇団の『金夢島(かねむじま)』を観た(10月24日 火曜 18:00/芸劇プレイハウス)。

太陽劇団を見るのは2001年の『堤防の上の鼓手』(新国立中劇場)以来だから、実に22年振り。『鼓手』は俳優が(文楽)人形振りを見事に演じきる驚嘆すべき舞台だった。ただ演者らが東洋人に似せて顔を細目(吊り目)に作っていたのは少し違和感もあった。が、今回はまったく異なる印象。以下、簡単にメモする。

東京芸術祭 2023 芸劇オータムセレクション 太陽劇団(テアトル・デュ・ソレイユ)『金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima』フランス語上演(多言語の使用場面あり)・日本語字幕付き

演出:アリアーヌ・ムヌーシュキン(2019年京都賞受賞)/創作アソシエイト:エレーヌ・シクスー/音楽:ジャン=ジャック・ルメートル/出演:太陽劇団(テアトル・デュ・ソレイユ)

日本の大衆演劇(芝居)へのオマージュか。日本への愛が強く感じられた。ピナ・バウシュとロベール・ルパージュを合わせたような印象も。

老いた女性コーネリアがベッドで夢を見る。…日本の島(佐渡)で国際演劇祭を開催し、町おこしを企図する市長と、カジノリゾート開発(どこかで聞いたような)を目論む海外資本グループとの対立が展開される。舞台では、移動式ベッドのコーネリア+守護天使ガブリエルと、彼女が夢見る島での出来事が同時に現前し、進行する。能舞台や銭湯など、場面によって様々に変わるセットが素早く設えられるが、その間、舞台手前で芝居が繰り広げられる。素朴だか効果的な道具立ての数々(主に日本の古典芸能や大衆演劇を思わせる)を含め、見ていてとても楽しい。ヘリコプターの場面はルパージュばりのローテクの面白さ。日本の人形劇一座、中東一座、香港の劇団、アフガニスタンの難民劇団、ブラジルの劇団等々、いろんな国の演劇グループがフェスティヴァルのリハーサルをおこなう。その際、国の政治的な問題が顕在化するという趣向。富士山の背景画を設えた銭湯で女同士、男同士が入浴するシーンはリアルでとてもコミカルだった。

…ラストは巨大な鶴が奥から登場し、全員が扇子を持って舞踊(羽衣)を踊るなか "We’ll meet again" が流れる。ここはピナっぽい。「戻ってきた鶴」とは〝鶴の恩返し〟ではないか(佐渡木下順二が『夕鶴』で用いた「鶴女房」の伝説の地)。ムヌーシュキンたちは日本文化への恩返しに戻ってきた、そして「いつかまた会いましょう」と。なんかグッときた。(後ろの女性は "We’ll meet again" の歌詞を小声で口ずさんでいた。)

他にも、劇中で引用されたセリフや言葉が印象に残った。本屋のシーンで『桜の園』を注文していた女性客が、すでに読んだという『三人姉妹』のイリーナのラストのセリフを語る(もちろんロシア語で)——

やがて時が来れば、どうしてこんなことになったのか、なんのために苦しんできたのか、それが分かる日がやって来る。[…]でも、それまで生きていかなくてはいけないのね……。働かなくてはいけないのね。(浦雅春訳)

さらに、トーゼンバフが決闘に行く前の(死を賭した)セリフを店主が暗誦する——

あなたに恋してもう五年になるけど[…]でも、ただひとつ、たったひとつぼくの心をさいなむ棘がある——あなたはぼくのことを愛していない!(同上)

また、もっと前だったか、ジョン・ダン(1572-1631)の有名な英文の一節を誰かが暗誦した。スペインの内戦を扱ったヘミングウェイの長篇『誰がために鐘は鳴る』(1940)のタイトルおよびエピグラフに使われたあれだ。

誰一人として、自己充足的な孤島ではない。全ての人間は大陸の一部であり、本土の一部である。一塊の土が海によって洗い流されるなら、ヨーロッパはそれだけ小さくなる。それは一つの岬、或るいは、あなた自身の荘園、または、あなたの友人の荘園が、洗い流されたのと同じことである。誰かが死ねば、それだけ私は小さくなる。何故なら、私は全人類と関連があるからである。それ故、誰のために鐘は鳴っているのか、使いの者を出して聞く必要はない。鐘はあなたのために鳴っているのである。(湯浅信之訳)

これは厳密には詩ではないし説教でもない。ダンが流行性の熱病にかかり死線をさまよった経験から書かれた「不意に起きる出来事についての祈祷」と題する瞑想録(1623)の一節だ。ムヌーシュキンも「一時病に伏し」たらしい(ごあいさつ/プログラム)。とすれば、チェーホフのセリフもそうだが、ダンの瞑想は、自身のコロナ禍での経験や戦争で斃れた死者への思いを代弁させていたのかもしれない。