文学座 3月アトリエの会 岸田國士フェスティバル『歳月/動員挿話』【加筆修正】

岸田國士の『歳月/動員挿話』を観た(3月26日 14:00/ 文学座アトリエ)。

美術:島根慈子、石井強司 照明:阪口美和 音響:丸田裕也 衣裳:宮本宣子 舞台監督:岡野浩之/制作:田中雄一朗、友谷達之、最首志麻子/宣伝美術:藤尾勘太郎

当初は他の公演と重なり諦めていた。が、予定の行事やバレエ公演等が新型コロナで続々中止となり、急遽、信濃町へ。見られてよかった。 岸田國士の対話劇の妙、科白の韻律美。こんな日本語はもう誰も書けない。『歳月』の演出(西本由香)は正攻法。転換でのギター曲や終幕のピアノ生演奏が印象的。『動員挿話』の演出(所奏)は大胆不敵。出鼻は違和感を覚えたが、ぐいぐい引き込まれ、全て科白に誘発されての発話/演技と納得した。

岸田國士については少し調べたことがある。感想を述べる前に、まず、この二作にまつわるメモを記したい。

「或こと」を言ふために芝居を書くのではない。/芝居を書くために「何か知ら」云ふのだ。(「言はでものこと」1924年

これは劇作家 岸田國士(1890-1954)の信条である。「『或こと』を言ふために芝居を書く」とは、「或る内容」や「思想」を表現するのが目的で、芝居や戯曲は二の次(手段/形式)という意味だ(両者は不可分だが)。これだと、内容や思想さえよければ、形式(演劇)はどうでもよいことになる。こうした考えが横行する「新劇界」に岸田は不満だった。

岸田にとって、演劇(戯曲)の価値を決めるのは、演劇を演劇たらしめる〝演劇性〟であり、それ以外のもの(主義主張や文学的要素)ではありえない。大事なのは「戯曲(演劇)でなくては現はせないもの」を捉まえることだ。

この信条から岸田は多くの戯曲を書いたが、今回の『歳月』(1935)は、岸田いわく「これが偶然私の『戯曲を書くために何か知らを云ふ』最後の作品となった。少なくとも、この種の天下泰平劇はここ当分書けさうにもない」と(「『歳月』前記」1939)。翌1936年、岸田は『風俗時評』と題する「戯曲ならざる戯曲」を「初めて『何かを云うために』書」き、これが岸田の転機となった*1。『風俗時評』は、脱稿直後【正確には掲載誌発売の一週間後】に起きた二・二六事件の空気を先取りした、ヒリヒリするような作品だ。この後、1943年に『かへらじと——日本移動演劇連盟のために』を書くまでの7年間、岸田は一篇の戯曲も書いていない(小説は別)*2。その背景にはもちろん戦争があった。ちなみに「『或こと』を言ふために」意識的に書いた最初の戯曲は、彼の唯一の戦争劇『かへらじと』であり、『風俗時評』は、図らずも書いてしまった、という方が当たっていると思う。

『動員挿話』(1927)の時代設定は「明治37(1904)年の夏」、日露開戦の年である。これは、明治の軍人家庭に生まれ、自らも陸軍士官学校へ進んだ後、文学に転じた経歴を持つ岸田國士にとって、個人的な意味があった。本作の宇治少佐同様、岸田の父庄造(当時少佐)は、この1904年に野戦砲兵第三連隊大隊長として出征し、同年9月、14才の國士は軍人を志して名古屋地方幼年学校に入学した 。つまり本作は、結局は軍職を捨てた劇作家が、軍人への志を初めて行動に移した23年前の我が家を題材にした作品である。

馬丁友吉と数代が過去に「痴情沙汰」を起こした挙げ句、夫人のとりなしで夫婦になったいきさつがほのめかされる場面があるが、これも、國士が幼少期に岸田家で実際に目撃した事件を基にしている*3 。つまり『動員挿話』の登場人物は、一般の観客や読者の眼には(当時としてもある程度は)特殊に見えるとしても、この作家には、きわめて身近な題材から作り出されたものである。

『動員挿話』は戦争に関わる内容ゆえに「或ることを言ふために」例外的に書いたと見る向きもある*4。本作が結果として「何か知ら」を語っていることは否定しない。というか、どの戯曲も「何か知ら」を表現しているだろう。当然のことだ。たとえば、数代の科白に見出せる〝反戦〟はいま観て(読んで)も説得的だが、これも、演劇美を実現するために創られた科白(動作と言葉)の絶妙なる「韻律的な配列」の結果、生まれた「何か知ら」にすぎない。

以下、それぞれ簡単にメモする。

『歳月』全3幕(1935)演出:西本由香

[配役]浜野計蔵:中村彰男 浜野計一:神野 崇 浜野紳二:越塚 学 浜野駒江:名越志保 友人(後に浜野)礼子:吉野実紗 浜野八洲子:前東美菜子 女中:音道あい (八洲子の長女)みどり:磯田美絵

 元高級官吏の浜野家が舞台。結婚前の長女が子を孕み自殺を図った事件を起点に、子の父親が〝不在の狂言回し〟となり、17年にわたる歳月で家族が変化していくさまを描く。場面転換の音楽はギター版モーツァルトか。初めは交響曲第40番のアンダンテ(第2楽章)? 幕切れは《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》の冒頭。ギター版を採用したのは、登場しない狂言回し(齋木一正)が「ギタアがそれやお上手だつた」(礼子)からだろう。岸田の悲喜劇はモーツァルトと相性がよい。…… 第3幕で、17歳となったみどり(磯田美絵)は、訪ねて来た顔も知らない父が別室で母と再会している間、伯母の礼子がよく「癇癪を起して、ガンガン音を出して」いた「熱情的」なショパンの「こがらし」を暗譜で弾き、父が帰ると、未来を予感させるグリーグの「春に寄す」を弾いて幕となる。大した腕前。

舞台は総じて悪くないが、どの俳優も、もう少し声を抑えてもよい。特にアトリエなどの小劇場では、そこまで強く声を出さなくても充分聞き取れる。岸田の場合、何より対話劇の音楽(韻律)を大事にして欲しい。八洲子役の前東美菜子は思いのほか声が低く太く、作品のイメージとは違った。神野崇は仕事にも就かず結婚もせずの長男役をうまく演じていた。母の名越志保は老け役を品良く演じて印象的。

『動員挿話』全2幕(1927)演出:所 奏

[配役]宇治少佐:斉藤祐一 馬丁友吉:西岡野人 従卒太田:西村知泰 少佐夫人鈴子:鈴木亜希子 数代:伊藤安那 女中よし:松本祐華

本作は、内容だけ抽出すれば、陸軍少佐に仕える馬丁の女房が夫の従軍に反対し井戸で自殺する話である。舞台にはなにもない。暗がりで上からモノが落下する音。座布団だった。あと旅行鞄も。天から人間に降りかかる。何かの隠喩か。天災、戦争、コロナ? 従卒太田の妙な動き。衝撃を受けた空間と見合っている、そういえなくもない。少佐夫人(鈴木亜希子)の対し方も奇妙。宇治少佐(斉藤祐一)と夫人は二人きりになると、思わず、磁石のように互いに引き寄せられる(ローラン・プティ振付のバレエ『こうもり』でベラとヨハン夫婦も同じ動きをする)。

本作の主軸は、少佐夫婦と馬丁夫婦という身分の異なるふたつのカップルだ。両者が動員に際して見せる態度の違いが芝居のツボのひとつ。普通はそう。たとえば、鈴子は数代のようにあからさまな態度はとらず、軍人妻ゆえに気丈に振る舞う。だが、鈴子だって夫が戦地に行くのは辛いし悲しいはずだろう(実際、本作の第一稿では、鈴子は夫の前で悲しみを直接的にも間接的にもさほど隠さない*5)。今回の少佐夫婦がにじり寄る動きは、二人の正直な内側を身体的に告げるものと見れば、これもアリだと、あとで思った。

言葉の語尾は所々で強調され、引き延ばされる。ディストーション? デフォルメ? 当初は地点の舞台(←苦手)を思い出し、ウェっと思ったが、どうもそれとは違う。岸田の科白の気持ち好さ、つまり音楽性(心理的波動)と呼応しているようなのだ。つまり、科白の韻律や意味が誘発するものに躊躇なくかたちを与えるとこうなった、そんな感じ。結果はコミカルで少々グロテスクでもあるが、芝居が進むにつれて、そこから感情や情動がみるみる湧き上がり、舞台に釘付けになった。たとえば第2幕の馬丁夫婦の部屋。夫の従軍を拒絶した数代(伊藤安那)は、友吉の代わりが見つかれば屋敷を出て行くことになっている。そこへ夫人が現れ、数代に優しい言葉をかける。しかし数代は、蔑みを受けるだけでは足りず、憐れみを受けなければならないのか、と泣き崩れるのだ。この泣き方も今時の女性と等身大で、なにか虚を突かれた。そこへ友吉(西岡野人)が入ってきて、やはり戦地へ行くことにしたと言い、夫婦の緊迫した対話の果てに悲惨な結末が……。

93年前に書かれた科白を、いまの役者の身体にひとつひとつ丹念にくぐらせていく。結果、途方もない仕草(科)や発話(白)が現出しても、あえてそれを採用する。そう見えた。その勇気は見事だと思う。この点、5日前に観た『冬の時代』の舞台(unrato/芸劇シアターウェスト)とは対照的だった。所奏の名前は覚えておきたい。

それにしても、どうして文学座にはこんなにいい役者が揃っているのだろう。文学座には、ぜひ『かへらじと』を上演してほしい。『風俗時評』も(かなり工夫が必要だと思うが)。

*1:1936年以降、現代演劇の再建という年来の悲願をいったん封印し「『新劇』から手を引いた」岸田國士は 、「根本的な工作に転じ」日本の文化を再建すべく評論を発表した。また大政翼賛会文化部長として(1940年10月~42年7月)文化運動を推進すべく全国を講演して回り、対談やラジオ放送等もこなした。こうした活動を通して訴えた岸田の〝戦争文化論〟とは、日本の伝統文化を現代に復興させ「力としての文化」の新たな建設と共に、人間性(人間といふものはどんなものかといふこと)についての認識の共有を促すことだった。認識の共有と新文化の建設は密接に関連しているが、岸田は、「この共通な認識」が「今無ことが、結局はいざといふ場合に、国民の本当の力を出し切ることのできない最大原因だと思ふ」と、表明していた(「文芸雑談」1940年12月) 。岸田がこう書いてから80年経つが、「この共通な認識」は未だに無い。

*2:演劇が、小説や詩等の文学と比べ、きわめて社会性の高い芸術分野であることと無関係ではない。演劇は、作者と観客のほかに、俳優、演出家、装置家、さらに劇場等の社会的な存在なしには成立しえない。

*3:「風呂場が騒々しかつた。朝である。/母の後ろからなかをのぞくと、女中のよしが、壁にもたれて泣いてゐる。馬丁のオカドが右手に木鋏を持つて、そのそばに立つてゐる。よしの髪の毛が半分、オカドの左の手から垂れてゐた」。「痴情沙汰」「『追憶』による追憶」(1926年)『岸田國士全集』20(岩波書店、1990年)

*4:渡邊一民『岸田國士岩波書店、1982年

*5:『動員挿話』にはヴァリアントが存在する。「第一稿」は1927年7月1日発行の『太陽』に掲載され、2ヶ月後「帝国劇場9月興行上演台本」と副題された「改作 動員挿話」が『演劇芸術』(同年9月1日発行)に発表された。もちろん後者が決定版。