2017 第1回特別展「空襲被害者と戦後日本」と芸術文化

特別展「空襲被害者と戦後日本」を見てきた(3月3日/東京大空襲・戦災資料センター)。
もうすぐ3.10「東京大空襲」は72年目を迎える。といっても、足を運んだのは日本の近現代史を研究している同僚が本展を主催していたから。近年は、ブログの表題どおり、劇場文化が主な関心事だが、もともと戦争と文化の関係に興味があった。戦争文化から劇場文化への重点の移動は自分のなかでは必然なのだが、それはともかく、資料センターには今回初めて行った。清澄白河で都営バスに乗り換え10分ほどで北砂一丁目に到着。センターまでは徒歩2分。2階の特別展は当然ながら文字資料が多い。この日は花粉症の症状がひどく、文字をじっくり読む気になれない。あとでリーフレットや冊子にゆっくり目を通すことにし、主に写真やモノを見て回る。そのなかで、空襲を受けたピアノやバラックで暮らす家族写真の明るい表情が印象的だった(1945年6月8日頃/東方社・光墨弘撮影)。戦時にも音楽や芸術を愛する人々がおり、家財産をすべて失っても希望さえあれば生きてゆける、そういうことか。


3階は照明が落としてある。こちらの常設は撮影禁止。やはり文書類より写真やモノの方が取っつきやすい。感覚が刺激され思考のきっかけが与えられる。展示写真には黒焦げ死体が写ったものもあった。なんか既視感がある。ああ、これは交換可能だ、と思った。場所を特定しうる石仏等が写っている写真は別だが、キャプションがなければ、その被害写真が「東京大空襲」なのか、「南京大虐殺」なのか、・・・なのか、分からない。区別できない。以前、板橋区立美術館が企画した「加害/被害 −絵画は何を暴くか−」展(1998)を想い出す。何度も通って見た。被害のみならず加害の視点を忘れないこと。つねに複眼的な視座を失わずものを見る、考える。今回その大切さを再認識した。
劇団銅鑼の朗読劇『継志―板橋での戦争を語り継ぐ』(2011)も展示を見ながら思い出した。戦争(空襲)体験を綴った手記を劇団員と素人の区民がまざって朗読する。それだけならどうということはない。コンテクストを演劇的に創り込み、その虚構のフレームのなかで手記が朗読されるのだ。毎年(?)上演しているようだが、初めて見た舞台では、震災直後の現代と戦時をつなぐ趣向が凝らされていたと記憶する(ブログ2012.3.31エントリーの「追記」参照)。その翌年見た『継志 その弐―板橋から戦争を語り継ぐ』(2012)では空襲の全国的な広がりが映像的にも強調され、あんな所まで空襲を受けたのか、といろいろ教えられた。3.10については、被害を受けた墨田区が毎年3月に平和祈念行事を行っている。新日本フィルの平和祈念コンサートもその一つ。アルミンクが指揮したブリテンの《戦争レクイエム》(2008)は素晴らしい演奏だった。そもそもブリテンの作品自体に「加害/被害」の対立を超えようとする視点が埋め込まれている。今年は11日に上岡敏之マーラー交響曲第6番《悲劇的》を振るはずだ(チケットを取りそびれた)。
帰宅後、特別展のリーフレットを読む。「銃後」の民間人を対象とした戦時災害保護法(1942)が、敗戦後、非軍事化政策の一環として軍人恩給や軍事扶助法と共に廃止されたこと。サンフランシスコ講和条約発効(1952)後、軍人恩給や旧軍人・軍属を対象とする援護・補償制度は復活したが、民間人を対象とした戦時災害援護法は、結局、成立しなかったこと等々。一方で、「東京空襲を記録する会」が1970年に発足し、東京都の補助金を得て、体験者の手記を公募し、『東京大空襲・戦災誌』全5巻にまとめられたとの由。とすれば、劇団銅鑼の朗読劇は、この5巻に基づいていたのかも知れない。なお、続いて全国各地でも空襲記録運動が始まり、その成果が『日本の空襲』全10巻(1980〜81年)に集大成されているという。機会があったら見てみたい。それにしても、民間の戦災障害者を対象とした援護法はなぜ成立しなかったのだろう。それは「東京大空襲」を記憶するための碑やプレートなどが乏しいことと関係あるのか。民間人の戦災を国として認めると、かの国の「人道に対する罪」を言挙げすることになるからか。かの国の「核の傘」に守られている側にしてみれば、それは出来ない相談ということか。戦災の象徴としては、ブランド化したヒロシマナガサキに代表させればよいとの考えか。誰の考え? 日本=われわれ? なるほど、岡田利規の『God Bless Baseball』(2015.11)がいう、カサに入ると「自分が自分のものではないようになる」とはこういうことか(2015.12.25エントリー参照)。
この日は東京大空襲・戦災資料センターの北砂から上野へ移動。国立西洋美術館で『シャセリオー展—19世紀フランス・ロマン主義の鬼才』を見た。