こまばアゴラ演出家コンクール 二次審査 2018

一次審査(金曜)の二日後(日曜)二次審査も見てきた(5月13日 14:00-18:30/こまばアゴラ劇場)。

審査員

平田オリザこまばアゴラ劇場芸術総監督・劇作家・演出家)
岩井秀人(劇作家・演出家・俳優)
佐々木敦(批評家)
松田正隆(劇作家・演出家)
柳美里(小説家)

課題戯曲
『お気に召すまま』より抜粋
(作:ウィリアム・シェイクスピア/翻訳:松岡和子)


各上演最長30分・上演間の転換(休憩)20分

抜粋箇所は3幕2場の後半と4幕1場。「ロザリンドは羊飼いの若者(男)の衣装をまといギャニミードと名乗ることで、オーランドーに対して圧倒的に有利な立場に立」ち、「自分に恋している男の気持ちを知りながら、自らの正体は隠して、『専門にしている治療法はカウンセリングです』とうそぶき、恋煩いを治すという口実で、ロザリンドに見立てて自分を口説けと命じる」場面(前沢浩子「解説」ちくま文庫)。
一次は転換時間5分以内だったが、二次は上演ごとに20分インターバルが入るのでかなり楽。以下、簡単にメモする。

1.和田ながら
ロザリンド:小瀧万梨子/オーランドー:吉田庸/シーリア:長野海

闇の中オーランドーの溜息から始まり、ロザリンドの溜息で終わる。男女の恋のやりとりをレスリングに見立て、シーリアがレフリー役を務める趣向。「判定」は、前半戦はロザリンドの、後半はオーランドーの勝ち。ロザリンドの活気溢れるクリアなセリフ回しと、幕切れで寝そべってオーランドーへの「恋の深さ」を表出するシーンとのコントラスト。後者では女性的エロスが横溢した。男装しなくとも外身と中(生)身の乖離を劇化しえた。フレームにレスリングを使って二人の出会い(1幕2場)とリンクさせ、セリフの少ないシーリアをレフリー役で躍動させた点も見事。

2.額田大志
ロザリンド:永山由里恵/オーランドー:佐藤滋/シーリア:寺田凛

踊り、白眼、歌。ドタバタ。テクストの改変、デフォルメ。ロザリンドの白眼は恋の盲目性と狂気を表すのだろう。彼女が「ぼく…」の発語を必ずどもるのはジェンダーのズレゆえか。客席も失笑から、爆笑へ(私はあまり笑えない)。ここまで役者をその気にさせ、追い込める力量は大したものとは思う。一見ハチャメチャに見えるが演出者にとっては必然性があるのだろう。セリフ(言葉)よりも身体性を重視。演劇というより、何でもありのコンテ(ンポラリーダンス)の趣。ただ、これで全幕を作れるのか。作れたとしても、チケットを買って見たいか。

3.野村眞人
ロザリンド:木引優子/オーランドー:大竹直/シーリア:福士史麻

客に手を振りながら三度登退場し、同じ部分をモードを変えて繰り返す。ロザリンドとオーランドーが互いに片手を上げてから発話する、掛け合い漫才のノリで対話する等々。後半は一つの椅子に背中合わせで座り、対話は前に進むが……。ぶつ切りになるため、役者もやりにくいだろう。アイデアはあるが説得力に乏しい。セクシュアリティの問題意識に欠ける点も気になる。一次審査の方が嵌まっていた。

観客賞には和田ながら氏に入れた。一時間後に発表された結果も同じ(和田30/額田23/野村17)。が、審査結果は、額田大志氏。審査員五人の満場一致で決まったという。ただ、平田氏のみ和田氏を一位に入れたと聞き、少しほっとした。審査員が一人ずつ講評し三人の演出者も感想を述べた(翻訳者の松岡和子氏も促され客席からコメントした)。ある審査員の和田氏への不満に、本人からセリフを「逐語的」に処理する癖がある旨の発言があった。台本を精読し、セリフを尊重した演出になんら問題はない。ただ、演出家コンクールゆえか、審査員は、演出の個性や独創性を必要以上に重視しがちなのだろう。額田氏は、稽古に入るまえ俳優に一時間じっくり話を聞き、何ができるか、得意なことは何かを問うたらしい。役者の得意芸をパッチワークで作品に取り入れたと。演者とじっくり話す点は、ピナ・バウシュみたいだ。そういえば、彼の舞台は演劇というより、タンツテアターに近いかも知れない。
今回演出家コンクールを初めて見たが、どうしても指揮者コンクールと比べたくなる。後者でも課題曲(戯曲)が与えられ、プロのオーケストラ(俳優)とのコミュニケーション(リハーサル)を通して、スコア(戯曲)を最大限に生かした演奏(上演)が実現できるか競い合う。音楽の場合、当然ながらスコアの改変はありえない。一方、演劇の場合はそれが許されるらしい。少なくとも今回の「上演のルール」に改変を禁じる文言はない。「テキストレジー」という業界用語があるらしいが、演出の都合でセリフの改変・削除もOKとなれば、地点のような舞台を目指す若者の応募が増えるのか。個人的には、あまり見たくない(『光のない』は強烈な違和感はあったがいいと思った。『コリオレイナス』もまあ許容できる。だが、『ミステリヤ・ブッフ』は意味不明だし、『スポーツ劇』は途中で出た)。
ロンドンフィルの首席指揮者ウラディーミル・ユロフスキイによれば、指揮者は「作曲家と聴衆の仲介者」である。「楽譜の分析に、音楽を聴くのと同じくらい喜びを感じる」。「興味があるのは楽曲そのもので、解釈することではない。総譜(スコア)から発見したもの以上は何も加えない。自分の個性によって曲が汚染されないだけの距離感や客観性は担保していると思う」(「朝日新聞」2018.4.14)。

演出家は劇作家と観客の仲介者である。
戯曲から発見したもの以上は何も加えない。
個性によって作品が汚染されないだけの距離感や客観性は担保していると思う。

自分が見たいのはこう考える演出家の舞台らしい。
実に面白くかつ刺激的なコンクールだった。なにより、青年団(無隣館)の俳優を色々なかたち(!)で見ることができたのは大きな喜びだ。俳優たちは約一ヶ月前に戯曲の抜粋箇所を知らされ、本公演等の準備の合間にセリフを入れていたという。七名の演出家は、かくも質の高い俳優を演出できたのだから、受賞の有無に関わらず幸せである。
こまばアゴラ演出家コンクール 一次審査 2018 - 劇場文化のフィールドワーク