愛知県芸術劇場×DaBY ダンスプロジェクト『Rain』東京公演 2023

東京公演『Rain』の初日を見た(8月4日 金曜 19:00/新国立小劇場)。

暮れに、米沢唯がモームの短篇「雨」(1921)に基づくダンスを踊ると聞き、たしか新潮文庫の短編集があったと思い探したが、ない。処分したらしい。代わりにペンギン版の短編集が見つかり、正月に読んでみた。へーこの場末感満載の娼婦役を踊るのか。ちょっと驚いた。たしかに米沢は『ホフマン物語』の高級娼婦ジュリエッタや、いわゆる娼婦ではないが『マノン』のタイトルロールを見事に演じ踊っている。だが、「雨」のミス・トムソン(イギリス人モームはそう発音した可能性はあるがアメリカ人設定の彼女は〝トムプソン〟が自然)はそれらとまったくタイプが違う。米沢がどんなミス・トムプソンを造形するのか、見守りたい。

本作は降りしきる雨の効果もさることながら、謹厳で狂信的ともいえる宣教師デイヴィッドソンが重要になりそう。愛知の初演では吉崎裕哉が踊ったらしいが、今月の再演では中川賢に変わっている。鈴木竜はどんな舞台を創ったのか。(その後、中野好夫が訳した新潮文庫版を入手。装丁が懐かしい。40年前と変わってなかった。)

…ここまでは見る前のメモ。以下は実際に見た感想。

演出・振付:鈴木 竜/美術:大巻伸嗣/音楽:evala/出演:米沢 唯(新国立劇場バレエ団)、中川 賢、木ノ内乃々、Geoffroy Poplawski、土本花、戸田祈、畠中真濃、山田怜央

プロデュース:唐津絵理(愛知県芸術劇場/Dance Base Yokohama)、勝見博光(Dance Base Yokohama)/プロダクションマネージャー:世古口善徳(愛知県芸術劇場)/照明ディレクター&デザイン:髙田政義(RYU)/照明オペレーター&デザイン:上田剛(RYU)/音響:久保二朗(ACOUSTICFIELD)/舞台監督:守山真利恵、川上大二郎/舞台監督助手:峯健(愛知県芸術劇場)/舞台:(株)ステージワークURAK/衣裳:渡辺慎也/リサーチ・構成:丹羽青人(Dance Base Yokohama)/振付アシスタント:堀川七菜(DaBYレジデンスダンサー)/制作:宮久保真紀、田中希、神村結花(Dance Base Yokohama)/企画・共同製作:Dance Base Yokohama、愛知県芸術劇場

正直ピンとこなかった。むしろ原作を読まない方が楽しめたかもしれない。読んだ頭で見ると、多少とも見方が〝演繹的〟になる。つまり、原作の残像がイデアとして働き、その具現化を探してしまうのだ。

一方、昨年の『never thought it would』や『When will we ever learn?』の舞台は〝帰納的〟に見たと思う。鈴木竜の振付はたしかに抽象的だが、その抽象はきわめてリアルだ。ゆえに見る者の想像力を刺激し、作り手の創意をあれこれ考えながら個々の踊りを見る。そこに喜びがあった。

今回の『Rain』では、読後の残像に見合う振付や演出はあまり見出せず。また、美術や音楽の工夫は分かるが、通奏低音たるべき〝雨〟の「神経にさわる」「無慈悲さ」や「原始的な自然力の悪意」も体感できなかった。ただし、こうした読書体験と舞台の乖離が、逆に、原作から何を強く受け取ったのか気づかせてくれた。この点は後で触れる。

前半は秩序立ったキレのある群舞。悪くない。そこにスタンドカラーの黒服を着た中川デイヴィッドソンが加わる。やがて米沢トンプソン登場。秩序から混沌へ?トンプソンは秩序の撹乱者? …長い〝縄のれん〟で区切られた大きな立方体が上方から降りてきて、雨に閉ざされた箱状の空間を作り出す。面白い振付があった。降り続く雨を思わせる長い間の後、中川がハンドライトを米沢に照らすが、途中で米沢がそのライトを奪い、中川に照らし返す。見る側(男/宣教師)と見られる側(女/救われるべき娼婦)の関係が逆転する様をうまく表した。〝縄のれん〟の向こうから手や腕が伸び、それらにリフトされ浮遊する米沢トンプソンの妖しげなシークエンスは、H・アール・カオスの『秘密クラブ・・・浮遊する天使たち』を想起した。…

ただ、総じて舞台ではデイヴィッドソンのなかに渦巻く情念の変化がはっきりしない。前半の黒服から後半の裸での踊りが、禁欲的なあり方から本能を抑えきれない幕切れへの変化を示す?

 

原作では、デイヴィッドソンが風紀を乱すトンプソンを島から追い出そうと画策する。退去命令を知ったトンプソンは激しく抵抗するが、無駄だと分かるや傲慢で嘲笑的な態度を一変。怯えきった奴隷のごとく従順になる。サンフランシスコ行きの船に乗れば刑務所行きだ。それを極度に恐れるトンプソンは、あまりの恐怖心からデイヴィッドソンにすがりつく。追いつめられた彼女は〝罪深い〟自分のために祈るという牧師を信じるしかなかった。不安を煽り、脅して従わせる。宗教活動にはありがちだが、彼が島の総督を動かしたのも同じ手口だ。

だが、トンプソンが乗船する日の朝、海岸でデイヴィッドソンの血にまみれた遺体が発見される。自分の喉を剃刀で切り、自死したのだ。その日、トンプソンは元の派手なあばずれ女に戻っていた。何があったのか。それは彼女がドクター・マクフェイルに投げつけた幕切れの言葉に明らかだ。

あんたら男ときたら! 薄汚い、汚らわしい豚だ! あんたらはみな同じさ。あんたらみんなだよ。豚だ! 豚だ! You men! You filthy, dirty pigs! You're all the same, all of you. Pigs! Pigs!

ミイラ取りがミイラになった。デイヴィッドソンは、売春婦トンプソンの客と同様、彼女の体を求めたに違いない(これは彼がよく見た「奇妙な夢」、すなわち「ネブラスカの山々」が彼の夢に出てきた話で暗示されていた*1)。悪魔は売春婦トンプソンではなく牧師自身の中に居たのだ。その悪魔を、壊疽のごとく切除しようとしたのか。マクフェイル同様医師でもあった彼は、あるいは確実な方法で自分を抹殺したのか。

トンプソンの呪詛の言葉の背後には、牧師デイヴィッドソンへの激しい幻滅がある。この感情は舞台では不在だった。彼女は刑務所暮らしへの不安や恐れから「悔い改めたい」と牧師に告げる。自分のためにひたすら祈る彼を信じ、その〝誠意〟にすがらざるをえなかったのだ。が、自分を救うはずの「牧師さま」が、自分の体に欲情し…。これ以上の裏切りがあるだろうか。

宣教師の死に方とトンプソンの呪詛から感じるのは、〝力強い〟独善的な宣教師デイヴィッドソンに対する作者の強烈な憎悪である。彼をここまで完膚なきまでに叩きつけるとは。

一方、ナレーターのドクター・マクフェイルにはある種の〝弱さ〟が付与されている。これはマクフェイル(=作者ではないが)に過度の〝正しさ〟を帯びさせないためかもしれない。自らを絶対に正しいと見なすあり方への忌避と周到な戒めを感じる。

 

これらはもとより個人的な解釈だが、個人で舞台を見るかぎり、そこに相関物を探すのは避けられない。原作を知らずに舞台だけ見れば、また違った感想を抱いたかもしれないが。

そもそもコンテンポラリー作品でバレリーナに売春婦役を踊らせること自体かなり大胆な企画だと思う。ホノルルの赤線地帯から流れてきたトンプソンは、宣教師夫妻やマクフェイル夫人らにとって(ナレーターのドクター・マクフェイルは別)、島の原住民同様、下品で不道徳で堕落した存在である。バレエが得意とするのは一般に〝美しさ〟の表現だ。七人のコンテダンサーに混じり、ひとり汚れ役を演じた唯一のバレリーナ米沢唯は、大変だったろう。本が読める彼女だけに複雑な思いもあったか。数々の壁を乗りこえ成長してきた米沢だから、今後の糧にするはずだ。鈴木竜にはこれまで通り、リアルで抽象的な振付作品を創ってほしい。_

*1:デイヴィッドソンが見た夢の話を夫人から聞いたドクター・マクフェイルは「アメリカを横断する時、汽車の窓からその山々を見たことを思い出した。丸く、なだらかな山々が平原から急に高くなっていて、ちょうど大きな土竜[もぐら]の丘を見るようだった。ふとその時、なんとなく女の乳房を連想したことを彼は思い出した」(中野好夫訳)。このフロイト的暗示は、デイヴィッドソンが〝無意識〟ではすでにトンプソンの肉体を求めていたことを告げている。