新国立劇場バレエ『ホフマン物語』新制作【追記】

ピーター・ダレルが振り付けたバレエ『ホフマン物語』の全5公演を観た(10月30日 19:00,31日 13:00,18:00,11月1日 14:00,3日 14:00/新国立劇場オペラハウス)。初日・四回目・最終日は一階で、二日目の昼夜は三階バルコニーで。
未完のオペラ《ホフマン物語》は様々な版があるが、オペラとバレエ版の最大の相違は、歌手アントニアのバレリーナへの変更等ではなく、ミューズ/ニクラウスをカットしたことだ。オペラでは、ミューズ(詩の女神)がニクラウス(友人)の姿で、ハムレットに寄り添うホレーシオのように、つねにホフマンを見守り続ける。現実世界でホフマンが何度も恋に破れ惨めに苦しもうとも、幕切れではミューズが、その苦しみを創造の糧として肯定するようホフマンに促す。詩人の魂は最終的に救出されるのである。「あなたの心の中の灰から、天賦の才が燃え立つのです!/晴れやかな気持ちで、あなたの苦しみに微笑みかけなさい!/ミューズはあなたが祝福する苦しみを和らげるでしょう…」と(土屋進訳)。するとコーラスが、「人は愛によって大きくなり、涙によっていっそう成長する」と呼応する。愛の挫折が詩人の復活へと逆転するのだ。そこにこのオペラの(後味の)よさがある。だが、バレエ版では、ホフマンの詩人としての属性が不明確で、なによりミューズの不在が、ホフマンの惨めさや苦悩の反転を不可能にしている。初日は、そこに物足りなさを感じた。が、回を重ねる毎に、三人のバレリーナを見る喜びが先の不満を覆い隠した、というか、さほど気にならなくなった。三人のプリマが様式の異なる踊りを一つの舞台で繰り広げる様は、ガラを除けば、そう見られるものではない。ストーリーの一貫性がそこにある分、ガラでは味わえない醍醐味もある。その意味で、カンパニーは、よいレパートリーを得たと言えるのかも知れない。
以下、例によって、だらだらとメモを記してみた。

芸術監督:大原永子
音楽:ジャック・オッフェンバック(1819-80)
編曲:ジョン・ランチベリー(1923-2003)
振付:ピーター・ダレル(1929-87)
装置:川口直次
衣裳:前田文子
照明:沢田祐二
舞台監督:大澤 裕
ステージング:ケン・バーク/大原永子
コレオロジスト:ジュリー・ヘイドン

指揮:ポール・マーフィー
管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団コンサートマスター:三浦章宏)
主催:文化庁芸術祭執行委員会/新国立劇場


【10/30(金)19:00・10/31(土)18:00】
ホフマン:福岡雄大
オリンピア:長田佳世
アントニア:小野絢子
ジュリエッタ:米沢 唯
リンドルフ/スパランザーニ/ドクターミラクル/ダペルトゥット(悪の化身):マイレン・トレウバエフ
ラ・ステラ:本島美和
ホフマンの友人:福田圭吾(ルーサー)/八幡顕光(ナサーニエル)/奥村康祐(ハーマン)
ウェイトレス:五月女 遥/奥田花純/柴山紗帆
ステラのお付:今村美由起
ランドロード(カフェの主人):内藤 博
スパランザーニの召使い:小口邦明/高橋一輝
アントニアの父:輪島拓也
幻影たち:寺田亜沙子/堀口 純/丸尾孝子/奥村康祐/井澤 駿/小柴富久修
芸人たち(パ・ド・カトル):寺田亜沙子/堀口 純/貝川鐵夫/林田翔平
ミニョン:奥田祥智/渡部義紀


【10/31(土)13:00・11/1(日)14:00】
ホフマン:菅野英男
オリンピア:奥田花純
アントニア:米沢 唯
ジュリエッタ:本島美和
リンドルフ/スパランザーニ/ドクターミラクル/ダペルトゥット(悪の化身):貝川鐵夫
ラ・ステラ:堀口 純
ステラのお付:フルフォード佳林
ランドロード(カフェの主人):内藤 博
ホフマンの友人:原 健太(ルーサー)/小野寺 雄(ナサーニエル)/木下嘉人(ハーマン)
ウェイトレス:五月女 遥/広瀬 碧/飯野萌子
スパランザーニの召使い:八幡顕光/福田圭吾
アントニアの父:中家正博
幻影たち:寺田亜沙子/堀口 純/丸尾孝子/奥村康祐/小柴富久修
芸人たち(パ・ド・カトル):丸尾孝子/益田裕子/輪島拓也/林田翔平
ミニョン:奥田祥智/渡部義紀


【11/3(火)14:00】
ホフマン:井澤 駿
オリンピア:長田佳世
アントニア:小野絢子
ジュリエッタ:米沢 唯
リンドルフ/スパランザーニ/ドクターミラクル/ダペルトゥット(悪の化身):マイレン・トレウバエフ
ラ・ステラ:本島美和
ホフマンの友人:福田圭吾(ルーサー)/八幡顕光(ナサーニエル)/奥村康祐(ハーマン)
ウェイトレス:五月女 遥/奥田花純/柴山紗帆
ステラのお付:今村美由起
ランドロード(カフェの主人):内藤 博
スパランザーニの召使い:小口邦明/高橋一輝
アントニアの父:輪島拓也
幻影たち:寺田亜沙子/堀口 純/丸尾孝子/奥村康祐/林田翔平/小柴富久修
芸人たち(パ・ド・カトル):寺田亜沙子/堀口 純/貝川鐵夫/林田翔平
ミニョン:奥田祥智/渡部義紀

プロローグは「オペラ座のある街角のカフェ」。下手に劇場の楽屋口、壁にはオペラ《ドン・ジョヴァンニ》のポスターが貼られ、上手はカフェ、正面後方はパリの街並みが見える。セットはオーソドックス。ホフマンの三人の友人たちが気持ちの好い踊りを見せる。初日はルーサーの福田圭吾が溌剌と踊り、ナサーニエルの八幡顕光は垢抜けたか、ハーマンの奥村康祐は踊りが一段飛躍した感じ。二日目は特に木下嘉人(ハーマン)が印象的。ウェイトレスたちの踊りも快活だ。彼/彼女らの明朗さは、カフェのテーブルで酒を飲む初老のホフマン(福岡雄大/菅野英男/井澤駿)のうらぶれた様子とは対照的。福岡はもっと詩人(芸術家)に見えるよう工夫したい(バレエ版にそういう設定はないのかも知れないが)。オペラ歌手のラ・ステラ(本島美和/堀口純)はドンナ・アンナ役で出演するためオペラ座へ来る。サインをねだる男たち。彼女は公演後ホフマンと二人で会うことを記した手紙をお付き(今村美由起/フルフォード佳林)に託す。が、リンドルフ(マイレン・トレウバエフ/貝川鐵夫)がそれを買い取り、路上に捨ててしまう。本島は芝居が細かい。その後、テーブル上の3つの品(眼鏡・トゥシューズ・十字架)の由来を尋ねられたホフマンが、3つの恋の物語を語ることになる。トレウバエフは悪魔の化身たる役柄がよく見えた。一方、貝川はそうした典型とは異なるが、後で、こんな悪魔もいるかも・・・と思わせた。
場面毎に降ろされるドロップにはホフマンの横顔を描いたマンガのような肖像画(たぶんヴィルヘルム・ヘンゼルが1821年に描いた鉛筆画[切手にもなった]に基づいていると思われるが、歴史上のホフマンとは違ってかなり健康的)とシェリーの詩が原文のまま*記されている(出典は"Love's Philosophy"1819)。ゆえに観客は何度もこの詩を読まされる。

泉は河と混じり、河は大海と混じる、/天空の風はつねに混ざり合うのだ/甘美な情感と。/世界に独り身はいっさい存在せず、/万物は聖なる法則によって/互いに交わるのである。/私が君の存在と交わらないのはなぜ?//見よ、山々が遙かな天空と口づけし、/波々が互いに抱き合っているさまを。/妹-花は許されないだろう、/兄-花を見下すならば。/陽光は大地を抱きしめ、/また月光は海に口づけする/これらすべての口づけに何の価値があるのか、/もしも君が私に口づけしないなら?
【〝直訳調〟に修正】*1

自然を引き合いに〝求愛する詩〟のようだ(イギリス詩人シェリーはドイツ人のホフマンより16歳年下だが、没年は共に1822年)。
第一幕。スパランザーニの自宅の庭に面したサンルーム(プログラムでは「温室」?)。セットのコンセプトはプティ版『こうもり』の仮面舞踏会に似ている。より作り込んでいるが悪くない。スパランザーニ(トレウバエフ/貝川)と召使いの二人(小口邦明・高橋一輝/八幡顕光・福田圭吾)が自動人形をコミカルに組み立てる。音楽はオペラでスパランザーニとコッペリウスが絡むシーンの曲。初日は手と首が装着された後、人形が倒れたが問題ない。オリンピアの長田佳世の人形振りはさすが。キレのある高性能の動きでまさに機械人形のよう。奥田花純のオリンピアは温もりのあるヒューマンな人形。菅野ホフマンとのからみでいっそうヒューマンに(二日目マチネで菅野がすべった)。奥田はホフマンが魔法の眼鏡で見た「人間にみえるオリンピア」を造形したようだが、ここは機械人形に徹してもよかったか。この幕のホフマンは、若く自信満々の伊達男らしい(特に井澤の造形は明快)。ラストで眼鏡が外れて人形が壊れる演出(ホフマンがオリンピアと踊りながらいったん上手へ退場し、元の人形と入れ替わって再登場)は少し見え透いており面白みに欠ける。三日目(11/1)は預かった客人たちの帽子を召使いが落とすアクシデントも、芝居でうまく誤魔化した。また、壊れた人形はスパランザーニが倒す段取りのはずだがこの日は立ったまま。オケがよい。オペラでソプラノの妙技(コロラトゥーラ)を聴かせる部分は、クラリネットで始まり、ヴァイオリン群、フルート、オーボエ等と木管楽器を中心に受け渡す編曲。あえて地味な響きにしたのは、人形振りの踊りを妨げないためか。この幕は、セットのみならず群舞のコミカルなテイストや振付等もプティ版『こうもり』の仮面舞踏会の場を想起させる。だが、調べてみると『こうもり』の初演は1979年。『こうもり』が本作(1972)に似ているというべきか。
第二幕。アントニアの自宅の音楽室。襞の付いた群青色のカーテンが印象的。上手でピアノを弾くホフマン。アントニアの父にピアノを習っている(父はオペラではクレスペル、原作短編では顧問官でヴァイオリン製作の名人)。ホフマン役の弾き真似は右手を左手と交差させて低音部のメロディを弾くなど手の動きが本格的。ピアノ曲は、ラフマニノフ(リチャード・ホナー「ピーター・ダレルの振付作品と音楽」新国立劇場HP)というよりはモーツアルト風に聞こえた。そこへアントニア(小野絢子/米沢唯)が登場し、父(輪島拓也/中家正博)に見えないようホフマンと戯れる。小野は結核、米沢は心臓病を患っているような印象。原作では「胸部に器質的疾患があ」り「それが彼女の声に、あの不思議な力、人間の歌唱の領域をこえていると言いたいほどの希有なひびきを与えている」(「クレスペル顧問官」大島かおり訳)。米沢が心臓病みに見えたのは、歌手からバレリーナへの設定変更を解釈した結果か。踊っているアントニアは父に見つかり叱られる。ホフマン退場。やがてドクター・ミラクル(トレウバエフ/貝川)が登場。父を催眠術で去らせ、アントニアには催眠で幻想を見せる。幻により踊る喜びを想い出させて死に至らしめ、ホフマンとの愛を破壊する企て。
――セットと照明が変化するなか、ミラクルはアントニアを舞台奥の段上へ誘導し共に下手へいったん退場。奥の上部から襞状の白い布が降りてくると、濃い群青の空に白く発光するオーロラが現出する。美しい。ドクター・ミラクルは再びアントニア(別のダンサー)の手を引いて登場し奥中央へ。その間、黒を基調としたチュチュ姿の女性とタイツを穿いた男性とのペアが複数現れ、ゆったり踊り始める。音楽は『ライモンダ』の幻影の場を彷彿させた。やがて、チュチュ姿のアントニアが幻想に加わり、踊る。この音楽はオペラでミラクルがアントニアの亡母の歌声を呼び出す曲。さらにホフマンも登場し、パ・ド・ドゥを踊る。音楽は三拍子のアダージョクラリネットから始まる(アントニアとホフマンの二重唱に基づく編曲らしい)。小野と福岡のパ・ド・ドゥは輪郭が明快で美しい。米沢と菅野のPDD(31日)では、音楽が高まりはじめると、突然、突き上げるような高揚感を覚えた。楽日の小野と井澤のPDDでは後者が少し大胆さに欠けたが、かたちはよい。ホフマンのヴァリエーションは、オリンピアの場の音楽で開始されるがあとはまったく異なる。福岡のヴァリエーションはさすが。菅野もよく踊った。井澤はもっとゆったり感があってもよいが悪くない。アントニアのヴァリエーションは、『ライモンダ』三幕のそれと味わいが似ている。手を打ち合わせる代わりにこちらは足で床を打つ。音楽も、ピアノこそ用いないが同じ感触。ハンガリー風の振りも共通。小野の踊りは、三度ともライモンダを彷彿させた。腕使いが空気を切るような趣き。とてもよい。米沢のヴァリエーションはさほどライモンダを想起させない。例によって何にも似ていない、初めて見る踊り。二人の個性の違いを味わう喜び。楽日(小野・井澤)はコール・ドを交えたコーダでリフトが上がらず。二人の息が合わなかったか。
――踊る喜びに火が点いたアントニアは現実に戻り、ホフマンにピアノ伴奏をせがむ。アントニアの身体を案じ拒むホフマンの背後から無理に弾かせるドクター・ミラクル。音楽は、亡き母のそれ。米沢は、他のどこよりも(PDDよりも)ここでひたすら強度を高めて踊り、息絶える。駆け寄るホフマンがアントニア(米沢)の手を取るが、放すと地にばたんと落ちる。悲劇的。だが、本人は満足か。米沢は、ホフマンとの愛(生活)よりも踊り(芸術)を選ぶアントニアをよく生きた。ドクター・ミラクルの思惑通り。
第三幕。ヴェニス。ダーパテュート(ダペルトゥットdappertuttoは伊語で「いたるところに」=「神出鬼没」の意らしい)のサロン。妖しげな男女。高級娼婦ジュリエッタの米沢唯は少し蓮っ葉。というか、その不敵な眼は何かを捨てている感じ。本島美和のジュリエッタは娼婦の悲しさが滲み出る。男たちにリフトされながら踊るソロは、『マノン』第一幕第一場の“花魁道中”を想わせるシークエンスと類似。年齢を重ねたホフマンは信仰生活に入っている。そんなホフマンを堕落させようと企むダーパテュートとそれを手伝うジュリエッタ。二人の関係は当然ながらロットバルトとオディールを思わせる。だが、後のありようはまったく違う。米沢のジュリエッタはホフマン籠絡に生きがいすら感じ、すべてを賭ける。まるで何かに復讐するように。ホフマン役の福岡は第二幕とはまったく別人(彼は米沢が相手だと無意識が表に出てくるようで面白い)。福岡と米沢は男女二人の壮絶な戦いを繰り広げる。菅野ホフマンと本島ジュリエッタは、後者が余裕で仕掛けると前者が誘惑されまいと必死で自制する。ジュリエッタに惹かれるホフマンの葛藤は、『マノン』第三幕でデ・グリューが看守を殺害した直後の両手を後に組んだまま両脚を屈伸させる激しい振りを想起させる。迫力満点。ただし、鏡像を奪われたホフマンが棒を拾って十字架を作り悪魔払いのように対抗するシーンには、違和感を覚えた(そもそも信心深いホフマンも変だが)。オペラ(もちろん原作短篇)にはないし、なにより詩人(芸術家)E. T. A. ホフマンの思想にそぐわない(スコットランドは人口の65%がキリスト教徒というのが事実なら、その観客の「期待の地平」を考慮した結果なのか)。「舟歌」の音楽は有名だが、それに見合うゴンドラや運河のイメージが視覚的に乏しいのは少し残念(照明で河の流れが表象されていたのかも知れないが)。ところで、マクミランの『マノン』は1974年が初演。ダレルの『ホフマン物語』はその2年前(1972)だ。前者の方がダレルから影響されたのか(バレエの場合、再演時に改訂されることが多々あるため、初演の映像等を確認しない限りなんともいえない)。
エピローグ。再びプロローグと同じ場面。酔いつぶれたホフマンとラ・ステラとのすれ違い。彼女はリンドルフと連れだって去る。四人の女(一人は人形だが)の幻がホフマンの元に現れる。ラストでリンドルフ(悪魔)の力が誇示された後、老いたホフマンは舞台中央で三人の女性にちなんだ三つの品とステラが残した赤薔薇一輪を地面に落とし、嘆いて幕。
場面毎に降りるドロップに記されたシェリーの詩と合わせると、ホフマンの三つ(四つ?/オペラでは物語の三人の女性はステラ一人に収斂することが示唆される)の恋とその挫折がテーマなのだろう。冒頭で触れたように、現実での恋の挫折や不幸が創造の肥やしとなり、苦悩の深さこそ逆に詩人(芸術家)の魂を輝かせるという、オペラの反転(救い)はここにはない。その分、エピローグの老いたホフマン役は難しくなるだろう。実際どんな役作りが要請されたのか。ただの老人が昔の恋を嘆き悲しむだけでは収まりがつかない。やはり、ホフマンは詩人であり芸術家である点をなんらかの方法で強調すれば、それなりにかたちをなすのではないか。
今回米沢唯が大車輪の活躍をみせた。初日はジュリエッタ(第三幕)を、翌二日目マチネはアントニア(第二幕)を、同日ソワレでジュリエッタを、翌三日目(マチネ)はアントニアを、一日休演を挟み、四日目(マチネ)はジュリエッタを踊った。どの舞台でも異なる役をそれぞれ目いっぱい生きる踊りで疲れを知らない。どうせならオリンピアでも見たかった。
東フィルは瑕のない演奏で見事だった(楽日に若干疲れがみえたが)。いつもこのクオリティーを維持して欲しい。指揮者ポール・マーフィーは期待以上のパフォーマンスだった。
販売プログラムは音楽関連の記事に物足りなさを感じた。青島氏のエッセイは本作の鑑賞にほとんど役立たない(書き手に責任はないが)。オペラの音楽をバレエ版にどう取り入れたのか等、ランチベリーの編曲について具体的な情報が欲しいところ。劇場のHPにリチャード・ホナーのエッセイがスコティッシュ・バレエのプログラムから転載翻訳されていたが、後発再演の劇場として、さらに詳しい分析があってもよかった。

*1:【追記:死後出版の本詩にはいくつか異同がある。舞台のドロップでは第一連の最後三行は "All things by a law divine/ In one another's being mingle—/ Why not I with thine?" となっているが、"All things by a law divine/ In one spirit meet and mingle. . . ."「万物は聖なる法則によって/出会い、交わってひとつの精神となる。」の異同が、また、第二連の最終二行はドロップは "What are all these kisses worth/ If thou kiss not me ?" だが、 "What is all this sweet work worth . . .?" の手稿もあるようだ。イギリスの作曲家ロジャー・クィルターが本詩に曲を付けたとき(声とピアノのための「三つの歌」[1905]の第一曲)、スコティッシュ・バレエと同じ版を使っている。いずれも分かりやすさを優先したのかもしれない。2024.2.25】