新国立劇場バレエ『マノン』2020 新たなマノン像

『マノン』のゲネプロ、初日、2日目、3日目を観た(2/21 金,22 土,23 日 14:00,26 水 19:00/新国立劇場オペラハウス)。

このバレエ団が『マノン』を上演するのは、2003年、2012年に続き三回目。

初日と2日目は米沢/ムンタギロフ/木下。ゲネプロと3日目は小野/福岡/渡邊。4日目(米沢/井澤/木下)と5日目(3日目と同じ)はコロナウィルスの影響で中止。

初日は終演後、茫然自失。米沢唯の「いのちがけ」に全身全霊で呼応するムンタギロフ。その誠実さ。二人のスタイルは必ずしもマクミラン的とはいえないが、その場で生まれた〝舞台の命〟に全身が震えた。

レスコーの木下嘉人、ムッシューG.M.の中家正博も素晴らしかった。途中、木下レスコーの酔っ払いの踊りあたりから客が拍手しなくなった。ただならぬものに立ち会っていることを感じ始めた証しだろう。〝舞台の命〟は生身のダンサーにみならず、こうして見守る生身の観客なしにはありえなかった。

米沢唯のマノンは、プレヴォより後の、ロマン主義時代に形成された所謂「ファム・ファタール」的悪女像とは異質である。また、インモラルに見える行動の背景に貧困を読み取り、「マノンは貧乏になることを恐れたというよりも恥じたのだ。あの時代の貧困は、長く緩慢な死に相当した」とみるマクミランの解釈(ジャン・パリー『別の鼓手』)とも*1。むしろ米沢は、既成のマノン像はすべて括弧に入れて、プレヴォがデ・グリューの視点を通して描いたマノンを、丹念に自分のからだにぐくらせて、デ・グリュー同様きわめて誠実なムンタギロフと舞台の内外で対話しつつ生きてみた。結果、あのマノンが生まれた。そういうことではないか。

久し振りにプレヴォの小説『マノン・レスコーシュヴァリエ・デ・グリュとマノン・レスコーの物語)』を新訳で読み直した(光文社古典新訳文庫 2017)。意外にも、活字から浮かび上がるマノンのイメージは、米沢マノンとさほどの距離を感じなかった*2

マノンという女性は、語り手のルノンクール公爵にとって「何ともやさしく、魅力あふれる慎ましい様子」を見せ「上流の令嬢」にも思われる一方で、デ・グリューを何度も裏切り、「魅力はあるが不実な女」とデ・グリューにいわしめる。ゆえに公爵(語り手)は「女というものの理解しがたさ」について思索せざるえない。この思索は、米沢唯の模索と繋がっているように思える、「私も含めて女という、不条理の底の、普遍的な何かを見つけて、少しずつ手繰り寄せ、演じていきたいと思います」(ミニ・インタビュー「The Atre」2月号)。

以下、例によって、だらだらとメモする。

振付:ケネス・マクミラン(初演1974)/音楽:ジュール・マスネオーケストレーション・編曲:レイトン・ルーカス,編曲協力:ヒルダ・ゴーント/美術・衣裳:ピーター・ファーマー/照明:沢田祐二/新オーケストレーション・編曲(1911)・指揮:マーティン・イェーツ(イエイツ)/管弦楽:東京交響楽団

マノン:米沢 唯/デ・グリュー:ワディム・ムンタギロフ(英国ロイヤルバレエ・プリンシパル)/レスコー:木下嘉人/ムッシューG.M.:中家正博/レスコーの愛人:木村優里/娼家のマダム:本島美和/物乞いのリーダー:福田圭吾/看守:貝川鐵夫

高級娼婦:寺田亜沙子(2日目は渡辺与布) 奥田花純 柴山沙帆 細田千晶 川口 藍

踊る紳士:速水渉吾 原 健太 小柴富久修

客:宇賀大将 清水裕三郎 趙 戴範 浜崎恵二朗 福田紘也

当日掲示のキャスト表は簡略にすぎる。以前の販売プログラム同様、もっと詳細なものを示して欲しい。

 第1幕

1場 パリ近郊の宿屋の中庭

冒頭はオラトリオ『聖母』第四場の前奏曲「聖母のとわの眠り」。本作は冒頭と結末にマノンへの祈りの音楽が奏される。幕が開くと木下レスコー(原作では素行のよくない近衛兵)が舞台中央に片膝を立てて座り、客席の向こうを見つめている。佇まいがとてもよい。木下はワルの感じがシャープな踊りや動きに滲み出る。米沢マノンとの兄弟の絆もOK。愛人木村は踊りはシュアーに見える(わたし絶対に失敗しないので的な)が、娼婦/愛人としての甘さや可愛げが欲しい気もする。ムンダギロフ=デ・グリューはまさに育ちのよい(元)神学生。登場したマノンは歌曲『田園詩』の「黄昏」*3に合わせて、片脚を交互に動かすステップ(ロン・ドゥ・ジャンブ? プティ・バットマン?)が印象的。ライトモティーフのステップ版か(続く2・3幕でもマノンは登場の度に同じ音楽で同じステップを見せるが、その分、彼女の変化がより際立つ)。デ・グリューはマノンを一目で気になりはじめ、本を読みつつ時折マノンに視線を向ける。そのプロセスがとても自然。マノンのデ・グリューへの初見は単なるone of them(男)。それが徐々に変わっていく。デ・グリューの挨拶のソロ。その雄弁なアラベスクから、誠実さ、明朗さ、大きさが表出される。両腕を広げる動きは、いつも羽を広げた孔雀を連想させるが、ムンタギロフはどこまでも気品を失わぬまま(初日は弦の音程がいまひとつ、2日目以降はOKだが、コンマスソロのグリッサンドはこの場にそぐわない)。出会いのパ・ド・ドゥ。米沢は相手に身を任せる(自分を投げ出す)あり方が半端ではない。リフトされるときの気持ち好さが増すにつれてどんどん相手を好きになり、見交わす二人の笑顔も増していくかのよう。が、音楽はエレジー*4。この出会いが悲劇の始まりであることを告知する。実に秀逸。

2場 パリ、デ・グリューの下宿

父親に手紙を書くデ・グリューのペンを奪い、二人は抱擁する。結ばれた喜びを再確認する歓喜に溢れた踊り(寝室のパ・ド・ドゥ)。音楽は「君の青い瞳を開けてよ」*5。シークエンスの後、ベッドにダイブするマノン。これが幸福の絶頂か。デ・グリューが手紙を出しに行った直後、レスコーがG.M.中家と来訪。マノンは初めは拒否するが、豪華な毛皮やネックレスに心が動く。過去よりも〝いまここ〟の快(贅沢/快適)を優先するマノン。レスコーとムッシュー G.M.のトロワ。マノンの〝女としての価値〟をムッシュー G.M.に疑似体験させる官能的な踊り(こんな振付よく考えるな)。毛皮を着たマノンが去る前、ベッド(デ・グリューとの過ぎた時間)に手を当て、毛皮(いまここの快)と比べ、納得する(やはりこっちだわ、と)。マノンとムッシューG.M.が去った後、帰宅したデ・グリューとレスコーが鉢合わせ、激しいやりとりに。レスコーは、お前のためでもあるのだ、だから金を受け取れと。上背のあるムンタギロフ(デ・グリュー)と木下レスコーだが、後者が前者を圧倒する。見応えあるシーン(初日はトランペットが少しへたった)。

第2幕

1場 高級娼家でのパーティ

レスコー(木下)の酔っ払いの踊りはこれまで見たなかでも最上位の部類。ボトルを真上に持ち上げて飲む仕草、ふらつく動きも力が抜けて秀逸。愛人(木村)とのやりとりもよい。木村は下層(?)出身の感じがよく出ている。踊る紳士の速水渉悟(ピンクタイツ)はやはり抜きんでている(潰されないで伸びていってほしい)。例の音楽が聞こえるとマノン登場。花魁道中の誇示するような感触よりも、水を得た魚のような自在さ(私の場所はここよといわんばかりの)が優勢。ソロはきわめてスムーズで、音楽のテンポが速く感じたほど。贅沢を保証する後ろ盾を得て、質素な暮らしの不安は払拭され自信に溢れている。男たちに次々とリフトされるシークエンスも大変なめらか。自分がモノのように扱われることへの違和感のなさ、というか、むしろ快適ですらあるかのよう。が、デ・グリューが現れて心が騒ぐ。彼の苦悩を目の当たりにして、初めて自分の行動の意味を知り、深く動揺(同情)する。特に初日は、あたし何てことしたのかしら、と涙を滲ませるほど。ここまで感情を動かしたマノンは初めて見た。状況はまったく異なるが『椿姫』第2幕2場でアルフレード(アルマン)を見たヴィオレッタ(マルグリット)の反応を想起(プレヴォなしに117年後のデュマ・フィス小説はない)。ムンタギロフ=デ・グリューの生きられた煩悶が米沢マノンの深い同情を喚起したのだろう。ムッシュー G.M.から飲み残しのグラスを渡され、「なんでぼくがあんな奴の…」とテーブルへ割れんばかりに置く。マノン/レスコーに促され、カード賭博でいかさまする時、ムンタギロフは必ず後ろを気にしてカードを隠す(すり替える)。こうした細部がドラマの質を高めていく。本島マダムの細やかな演技や中家G.M.の一貫したオレサマ感、趙載範(客)の盤石なサポートと巧みな芝居等が舞台を引き締めた。いかさまは結局バレて、二人は逃げ出すが、レスコーはムッシュー G.M.に捕まる。

2場 デ・グリューの下宿

パッキングして下宿を引き払う準備中の二人。ブレスレットのパ・ド・ドゥ(音楽はオペラ『グリセリディス』第2幕から「彼は春に立ち去った」)。パーティで着ていたドレスを持って行きたいマノン。首を振る元神学生のデ・グリュー。ブレスレットだけでも。ノー。地上(モノ)vs天上(精神)の対立(cf. ヴィシニョーワ&ゴメス)。ムッシューG.M.と警察が拷問されたレスコーを連れて登場。マノンの行動は兄の死も招いた(原作では同じ近衛兵に恨まれ射殺される)。第3幕での転落を強化し〝罪と罰〟を明確にするためか。

 第3幕

1場 港

流刑地で女を物色する貝川看守。憔悴し切ったマノン。必死で彼女をケアするデ・グリュー。それだけで、グッときた。マノンが看守の手下に連れ去られる。後を追うデ・グリュー。この場面にはいつも惹きつけられる。音楽とデ・グリューのあり方。グッときた。かなり。

2場 看守の部屋

逆光の部屋のセットが妙に美しい(『ニナガワ マクベス』のエドワード王宮廷を想起)。が、起きることは美しくない。看守に辱められるマノン。褒美にブレスレットが腕に巻かれる。あれほどこだわっていた装飾品を忌み嫌い、怖れるマノン等々。なんか見ていられない。デ・グリューが駆け寄り看守を殺害。凶器のナイフを何度もデ・グリューに見せるマノン。人を殺した直後、血がたぎり心が毛羽立つ青年のソロ。第2幕のパーティで全員が隣室に去ったあとのソロと比較せよ。苦悩から心の軋みへ(原作ではサン=ラザール修道院からデ・グリューが脱走するとき襲ってきた使用人を拳銃で撃ち殺す)。

3場 沼地

死を前にしたマノンが幻視する走馬燈。沼地のパ・ド・ドゥ。米沢マノンのフォルムはどことなくギエムを想起させる。が、あり方はまったく別。憔悴と凋落振りがここまで徹底したマノンは見たことがない。いまにも倒れそうなふらふらの足取りで助走し、天に向かって回転しながら飛び上がり、デ・グリューに抱き留められる。音楽はオラトリオ『聖母』の4場「聖母の法悦」聖母マリアの被昇天を描いたものだ*6。6年前見たABTの舞台では音楽がいわばマノン(ヴィシニョーワ)の内側で鳴っているように感じた。つまり、マノン本人が天に昇ろうと必死で藻掻いている。そう見えた。が、今回、それは、あくまで創作者(マクミラン)の祈りすぎず、被昇天への思いなどマノンのなかには存在しない。ただ、いまここで、最後の生を生きる、その行動が、わけも分からず、天に向かって飛び上がる動きになり、それを、最愛のデ・グリューが必死で受け止める。それが、無謀にも被昇天を試みているように見えたにすぎない。マノンのからだが地に触れるのをデ・グリューが必死で防ぐが、その祈りは叶わない。

2日目はすべてがよりズムーズな印象。沼地のラストでデ・グリューは息を引き取ったマノンに思わず口づけする。そのあり方がこの日は真に迫っていた。

『マノン』のバレエ音楽はチェロが要といってよい。3日目に2階左バルコニーで見て初めて気づいたが、チェロのトップは、東響ではなく、東フィルの服部誠氏が弾いていた。ゲストだったようだ。 

2012年の再演で「マノンに米沢唯をキャスティングしなかったのは信じがたい」と思った。が、「物事には時機というものがあります」と本人にたしなめられた(あれはRBが『アリス』で来日した年か)。その通りだった。マノンを(特に日本人が)踊るのは並大抵のことではない。2003年に踊った酒井はなも大変だったろう。今回その機が熟し、米沢はまったく新しいマノン像を見せてくれた。デ・グリュー役が井澤駿に変われば、また違ったマノンを生きただろう。コロナウィルスの影響で中止になったのは大変残念だ。

3日目についてはすでにツイートで簡単にメモしたが、少し加筆修正し、以下に採録する。

マノン:小野絢子/デ・グリュー:福岡雄大/レスコー:渡邊峻郁/ムッシューG.M.:中家正博/レスコーの恋人:木村優里(寺田亜沙子は怪我のため降板)/物乞いのリーダー:速水渉悟

一応かたちになったが、細部はまったく物足りないし、何より、役の心が見えなかった(それがあれば細部はおのずと付いてくる)。格好がついたのはG.M.中家やマダム本島等の強力な支えがあったから。デ・グリュー福岡はどうしたのか。8年前も神学生には見えなかったが踊りはとても充実していた。今回はどこか投げやり。ふて腐れているようにも見えた(何に対して?)。

小野はまずよくやったと思う。ただ、内側が伴わない相手では、化学反応の起きようがない。渡邊レスコーは酔っ払いの踊りは思いの外よかったが、デ・グリューとの爪先立ちの絡みでは、相手を圧倒する鋭さが足りない(木下は長身のムンタギロフをハラで優越した)。特に『マノン』のようなドラマティックバレエでは、ただ振付の形をなぞっても、その場で自ずと心の動きや感情が湧出しない限り、舞台の命は生まれない。客席の甘い反応に勘違いしてはいけない。第3幕は多少こころが動いたが、それは音楽と振付の力。1・2幕では二人から熱がまったく感じられなかった。渡邊デ・グリューに福岡レスコーなら、小野の好さがもっと出たのではないか。福岡と渡邊の好さも。

*1:初演のジョージアディスの美術は貧困を象徴する襤褸布の多用が印象的で新国立の初プロダクションもそうだった。が、2008年の再演からピーター・ファーマーの洗練された美的なセットに代わり、マーティン・イエイツのすっきりした新編曲と相まって、華美の裏に隠された貧困のイメージはほぼ払拭された。マクミランのマノン貧困説については、注2を見よ。

*2:訳者の野崎歓氏は、フェミニズムジェンダー論の視点から論じたシモーヌ・ドルサールの読解を紹介している。「『十八世紀の社会的文脈においては、平民に生まれた娘にとって修道院と売春とのあいだで選択の道は決して広くなかった』」。だから「身を売ることを辞さないマノンの貞淑観念の薄弱さを道徳心の欠如と短絡的に捉えるべきではない」。「マノンは自分の意志も存在も本当には認められないまま、男たちの欲望の対象としてのみ漂い続けることを余儀なくされた弱者」である等々。
 このマノン擁護論(1971)は、マクミランのマノン解釈に近い。バレエの初演は1974年だから、読んでいたかも知れない。
 だが、訳者によれば、「平民であるとはいえ、マノンの社会的身分がはたして[貴族の御曹司]デ・グリューとそこまで隔絶したものだったかどうかには、留保の余地があるかもしれ」ないという。なぜなら、語り手のルノンクール公爵はマノンについて「別の状況で出会ったなら上流の令嬢だと思ったに違いない」との印象を受ける。しかも、この「上流の令嬢」は1731年の初版では「どこかの姫君(プリンセス)」であり、さらに「貴族でなくともかなりの名家の生まれ」との一文もあったが、ともに1753年の改訂版で削除されたと。
 こうした改訂は刊行後に発禁処分となった事情と関係するのだろう。いずれにせよ、「マノンが読書好きなことや、ラシーヌの古典悲劇をもじって気の利いた詩句をひねりだしてみせることは、彼女の育った環境がかなりの知的・経済的水準にあったことをうかがわせ」ると野崎氏はいう。
 このマノン像は、マクミランフェミニズムジェンダー論的解釈とも、ファン・ファタール的イメージともかけ離れている。むしろ、米沢マノンに近いといえないか。

*3:歌曲『田園詩』第5番「黄昏」(詩:アルマン・シルヴェストル/訳:藤井宏行)《白いカーテンのように/その花びらを下げて/ユリの花たちは花びらを閉じ/テントウムシたちは眠りについている//朝の光がやってくるまで/ユリの花の中に隠されて/乙女の夢の中にいるように/テントウムシは眠りについている//ユリの花は一瞬たりとも眠らない/きみも頭を垂れて/ぼくらは愛のことを語り合わないかい?/テントウムシは眠りについている》

*4:付随音楽『復讐の三女神』から「エレジー」歌詞(詩:ルイ・ガレ/訳:藤井宏行)は次の通り。《おお甘き春よ 過ぎ去った昔の/緑の季節よ、お前は永遠に去ってしまった!/あの青空をもう見ることはない/あの鳥のさえずりを聴くことも!//私の幸せをみな持って/おお恋人よ、お前は行ってしまった!/春が戻ってもむなしいだけ!/そうなのだ!帰ってこないのだ、お前も、太陽の輝きも//微笑みの日々は消え去ってしまった/私の心の中は暗く凍り付いている!/すべては終わった! 永遠に!》マクミランと編曲のルーカスやゴーンは、この歌を二人の出会いのパ・ド・ドゥに使ったのである。

*5:(詞:ポール・ロビケ/訳:藤井宏行)《(彼)/君の青い瞳を開けてよ 愛しい人/一日は始まったんだ/もう鳥たちはさえずっているよ/愛の歌を/朝焼けはバラ色に染まっている/ぼくと一緒に行こうよ/花咲くヒナギクを摘みに/目覚めてよ! 目覚めてよ!/君の青い瞳を開けてよ 愛しい人/一日は始まったんだ//(彼女)/どうしてこの世界を/そんなに美しいと思うの?/愛することの方がずっと甘い神秘だわ/夏の日なんかよりずっと/私の中よ 鳥がさえずっているのは/勝利の歌そして私たちを燃やす太陽/この私の胸の中よ》

*6:オラトリオ『聖母』4場「聖母の法悦」《果てしなく続く夢! 聖なる法悦!/眼が眩む!/計り知れない広大さに胸が押しつぶされそう!/果てしなく続く夢!ああ! 未知の力にうっとりする。すでに私は義なる者の霊[天使]の声を聴いた。生の軛からすでに解放された私は、[人間としての]最後の悲しみを味わい終えたのだ!/おお、聖なる眩暈、悲しみをさそう輝き!/眼は眩み、計り知れない広大さに胸が押しつぶされそう!/天の扉が開こうとしている!.../果てしなく続く夢!...聖なる法悦!.../天空は光り輝き、燃え始める...燃え始める。/果てしなく続く白昼!/天よ、私はあなたを目の当たりにする!.../おお、光の奔流よ、/調和と愛の、/平安と美の奔流よ!.../あまりに取り乱した私の魂は、/祈りを捧げなければならない/この天上の荘厳なる光景に!.../おお、聖なる眩暈、悲しみをさそう輝き!/眼は眩み、計り知れない広大さに胸が押しつぶされそう!/天の扉が開こうとしている!.../果てしなく続く夢!...聖なる法悦!.../天空は光り輝き、燃え始める...燃え始める。/果てしなく続く白昼!》