アメリカン・バレエ・シアター『マノン』2014 全3キャスト(1)/全身全霊を込めたヴィシニョーワのマノン

2月28日(金)13:00/18:30/3月1日(土)13:00と全3キャストを観た(東京文化会館)。
『マノン』はいつも全キャストを見てしまう。新国立(2003年/2012年)はいうまでもなく、2005年ロイヤル・バレエの来日公演も4キャストすべてを見た(あの頃は惜しげもなくS席で!)。ギエム主演の『マノン』(ロイヤル・バレエ 1999年)がバレエに傾倒するきっかけになったのだから仕方ない。
今回じつは全部見るつもりではなかった。ケントがちょっと苦手で、ヴィシニョーワとセミオノワの二回予定が、ネット購入時に誤ってソワレのケント&ボッレ組を取ってしまい、あとでマチネ(セミオノワ)を買い足したのだ。結果的に三通りのまったく異なる舞踊(劇)と演奏(音楽)を堪能できた。セミオノワ&スターンズ組(味が薄い)とケント&ボッレ組(思いがけずとてもよかった)は4F右バルコニーの1列壁寄(D席)から、ヴィシニョーワ&ゴメス組は3F左バルコニーの1列壁寄(C席)で観た(残念ながらJapan Artsは次回のボリショイ公演では3F1列壁寄をCからBに格上げした)。
見た順とは逆に、遡行してメモする。まずは最終日のディアナ・ヴィシニョーワ&マルセロ・ゴメス組から。
見る前の予想をはるかに超えた舞台。ヴィシニョーワは元々マノンタイプと思わせるダンサーだ。彼女を初めて見たのはゼレンスキーとの「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」。身体全体が笑みを浮かべているような踊りに好印象を持ったが、その後、よいと思ったことはほとんどない。ヴィシニョーワといえば、ルジマトフとの共演後、カーテンコールで女性客が次々にルジマトフへ花束を渡し、どんどん不機嫌になっていく彼女が浮かんでくる(新宿文化センター)。配慮のかけらもないルジマトフファンもどうかと思うが、ヴィシニョーワの態度は後味のよいものではなかった。踊りについてもあまり感心した記憶がない。だが、今回のヴィシニョーワは、そうした過去のイメージを吹き飛ばす信じがたいパフォーマンスを見せた。
冒頭の序曲からしびれた。深い祈りを感じさせる素晴らしい演奏。
予想通り、このバレリーナにはマノンを踊るのに役作りは要らないのではと思わせる。それほどすべてが自然。たとえば、老紳士から預かった財布の中身を盗み見るシーンなどは、たしかにちょっと「品がない」ほどだ。出会いのパ・ド・ドゥでは少女らしく身体を弾ませながら、難しい技を難なくやってのける。特筆すべきは、歌曲「エレジー」の悲劇的な音楽が、序曲「聖母のとわの祈り」と呼応して、二人を包み込むように感じたこと。続く寝室のパ・ド・ドゥは、歌曲「君の青い眼を開けて」の喜びに満ちたメロディーそのまま。特に下手でリフトされて小鳥のように愛の喜びを弾けさせる動きでは、思わず頬が緩んだ。こうした思い切りのよい踊りができるのは、それをしっかり受け止めるゴメスの盤石なサポートがあるからだ。ムッシューG・Mの誘いに応じたあと、ベッドに寄り添う仕草には、ケントのような罪の意識の表出は微塵もなく、ただ「情が移ったので名残惜しい」だけといった風情。たしかにこれこそマノンだ。すごい。
第二幕、高級娼館のソロはまさに花魁道中。持っているもの(身体)の魅力を男たちに誇示して踊る。ヴィシニョーワの独壇場だ。続くシークエンスでは、モノ化された女の身体を、魅せられた男たちが〝変態〟気味に次々とリフトしていく。そのなかには、ひとり場違いなデ・グリューも混じるが、結局、このモノの所有者はオレ様だというように、ムッシューG・M(ヴィクター・バービー)がリフトのプロセスに介在し、マノンにブレスレットを嵌めて終わる。——何度見てもすごい振付!——その後、傷心のデ・グリューに詰め寄られ、彼への情愛と贅沢な暮らしの狭間で苦しむマノン。この葛藤は見応えがあった。
二場のパ・ド・ドゥでは、ブレスレットに象徴される享楽への執着を捨てきれないマノンとデ・グリューの諍いが見事に(自然に)舞踊化されていた。我が儘なマノンの小悪魔性が躍如。上手寄りでデ・グリューがマノンに背を向け右手を高く掲げると、マノンがなだめるようにその手を取り下へ降させる動きが二度つづく。形だけみれば、『白鳥の湖』第二幕後半でジークフリートが二本指を天に向けて誓い、その手をオデットが降ろさせるのとほとんど変わらない。だが意味は違う。これは、物欲にしがみつくマノンに閉口した元神学生が、思わず天を志向する仕草をしたのではないか。マノンは地上(的なるもの)への指向性を体現すべく、それを引き下ろすのでは? その後、G・Mが警官と負傷したレスコー(シムキン)を連れて現れ、後者を撃ち殺してしまう。衝撃のあまり我を忘れたマノンをデ・グリューは庇うように後から抱え込む。そんな彼をむずがるようにはね除け、斃れた兄のもとへ駆け寄るヴィシニョーワ=マノンは凄まじかった。
第三幕、流刑地ニューオリンズの港の場。登場したヴィシニョーワ=マノンの凋落振りに、打たれた。かなり打たれた。こんなことは初めてだ。本当に憔悴しきっており、(これまで見てきたマノンのように)作り笑いすらしない。汚れた姿に退廃美を自己演出するような志向など、いっさい見えない。美しさを完全に捨てている。続く第二場では、真に無力で無防備なマノンがいた。看守(ロマン・ズービン)による陵辱は文字どおり陵辱だった。ズービンは前夜(ケント/ボッレ組)のG・M役。さすがに存在感がある。その後、看守から褒美にブレスレットを着けてもらうシーンは、見ていて痛々しいほど。ここでのマノンは、これまでの人生をひどく後悔しているようにも見える。というか、いま振り返ってみると、ヴィシニョーワ=マノンは、前幕までの自分を激しく罰していたとすら思えてくる。第三幕を見ながら、ふと思った。ヴィシニョーワは、観客のためとか誰それのためというよりも、残されたバレエ人生のなかであと限られた数しか踊れないマノン役の、かけがえのない〝この舞台〟にただ全力を振り絞って踊っている、と。思ったというより、そう確信した。
沼地の場面。過去の出来事が次々に立ち現れるシークエンスでは、死を前にしたマノンの走馬燈体験として、とても説得的だった。そして最後のパ・ド・ドゥ。マノンはいまにも倒れそうな衰弱しきった足取りで、よろめきながら走り、飛び上がり、回転し、デ・グリューの両腕に抱き留められる。これほど自分を放棄しきった沼地のPddを見たのは初めてだ。これまで、この振り(リフト)は、マノンのデ・グリューへの強い信頼と愛を表したものと思っていた。もう私にはあなたしかいない、あなただけを信じ、愛すると。だが、ヴィシニョーワとゴメスの踊りを見て、考えを改めた。ここで、マノンは、天へ昇ろうとしているのではないか。ブレスレットのパ・ド・ドゥで、デ・グリューが指し示したあの天(Heaven)へ。バレエ『マノン』は、マスネーのオラトリオ『聖母』la Vierge(The Virgin)第四場の前奏曲「聖母のとわの眠り(永眠)」Le dernier sommeil de la vierge(The Last Sleep of the Virgin)で始まり、同じく第四場の「聖母の法悦」L'extase de la Vierge(The ecstasy of the Virgin)で終わる。この四場は聖母マリアの被昇天(The Assumption)を描いており、「聖母の法悦」では大天使ガブリエル等に見守られながら、聖母(ソプラノ)によって「果てしのない夢! 聖なる法悦!・・・」と天に上げられていくときの法悦が歌われる。力を振り絞って一心不乱に上へ飛び上がろうとする、あのヴィシニョーワの壮絶な〝踊り〟。あれは、聖処女マリアの被昇天のように「霊魂も肉体もともに」天へ昇ろうとするマノンの衝迫の表れではないか。天使ならぬ、最愛のデ・グリューに見守られながら。もしそうなら、マノンのなかで最後に生じたこの転回(改心)は、デ・グリューとの愛ゆえにもたらされたものだ。だが、もちろん、聖母マリアならぬ、娼婦マノンに被昇天が起きるはずもない。たとえ、デ・グリューが横たわるマノンの身体を地面から引き離そうとしても無駄である。マノンは地に倒れ、〝とわの眠り〟につく。
ここで観客の精神は冒頭の序曲に連れ戻される。オームズビー・ウィルキンズが指揮する東京シティ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏には、先に書いたとおり、深い祈りが込めらていた。あの序曲はマノンの魂が天で憩うように祈りを捧げているのだと思う。
第三幕では何度も涙が出てきて困った(マーティン・イエイツが新たに加えた三幕二場の前の間奏曲は、これまで「あってもよいがなくてもよい」と思っていたhttp://d.hatena.ne.jp/mousike/20120703/1341309184。この日の演奏は真に心のこもった名演で、ここで初めてグッときた。が、やはりあってもなくてもよい)。終幕直後のカーテンコールで、すべてを出し尽くし呆然として抱き合うヴィシニョーワとゴメス。まだマノンとデ・グリューから抜け出せていないのだろう。それほどの真に迫る舞台だった。
ウィルキンズと東京シティの演奏は、これまで聴いた『マノン』のベストといってよい。ゴメスのデ・グリューも素晴らしかったが、もう細かく記す余裕がない。挨拶のソロは踊りとしてきわめて十全だが、もう少し陰影が欲しい気もする。この人の明朗さは個性だろうが。シムキンのレスコーは踊りは巧いが、酔っ払いのソロなどは子供に見えた。が、全体のドラマ進行のうえで特に問題はなかった。
ヴィシニョーワのマノンほど「享楽的な性癖」を自然に体現したダンサーは見たことがない。小悪魔的で、節操がなく、我が儘な少女(娼婦)マノン。こうした負の要素が舞台で色濃く生きられるほど、最終幕でのマノンの自己放棄とそこから得られる聖性はいっそう強まるだろう。この日のヴィシニョーワはまさにそうだった。
最後に「聖母の法悦」(仏語)の歌詞を掲げる。邦訳をネットで探したが見つからないため、手持ちのCDに付属の英訳からとりあえず試訳する[少し字句を修正した]。

聖母(聖処女)(恍惚として)


果てしなく続く夢! 聖なる法悦!
眼が眩む!
計り知れない広大さに胸が押しつぶされそう!
果てしなく続く夢!
ああ! 未知の力にうっとりする。すでに私は義なる者の霊[天使]の声を聴いた。生の軛からすでに解放された私は、[人間としての]最後の悲しみを味わい終えたのだ!
おお、聖なる眩暈、悲しみをさそう輝き!
眼は眩み、計り知れない広大さに胸が押しつぶされそう!
天の扉が開こうとしている!...
果てしなく続く夢!...聖なる法悦!...
天空は光り輝き、燃え始める...燃え始める。
果てしなく続く白昼!
天よ、私はあなたを目の当たりにする!...
おお、光の奔流よ、
調和と愛の、
平安と美の奔流よ!...
あまりに取り乱した私の魂は、
祈りを捧げなければならない
この天上の荘厳なる光景に!...
おお、聖なる眩暈、悲しみをさそう輝き!
眼は眩み、計り知れない広大さに胸が押しつぶされそう!
天の扉が開こうとしている!...
果てしなく続く夢!...聖なる法悦!...
天空は光り輝き、燃え始める...燃え始める。
果てしなく続く白昼!

ジャパン・アーツへ一言。
カーテンコールでの花束贈呈のやり方は、おかしいと思いませんか。いつも、下手から出てくる職員がまず二番手のバレリーナに渡す。このとき、主役バレリーナは自分ではなく二番手に花束が渡されるさまを、衆人環視の前で不安そうに見つめることになる。ヴィシニョーワだけではない、ケントですら、怪訝そうな表情だった。「一番手は私なのに、なぜ?」と。上手から遅れて登場した職員が慌てて主役に渡し事なきを得る。この愚行を毎回くりかえして、平気なのはなぜでしょう。

アメリカン・バレエ・シアター『マノン』全3キャスト(2)ケント&ボッレ組/セミオノワ&スターンズ組 - 劇場文化のフィールドワーク