小林紀子バレエ・シアター『マノン』2013

2011年に引き続き小林紀子バレエ・シアターが上演した『マノン』の初日を観た(8月24日 17時/新国立劇場オペラハウス)。
二年まえ島添亮子(あきこ)の相手はロバート・テューズリーだったが、今回は英国ロイヤル・バレエでプリンシパルを務めるエドワード・ワトソン。結果はどうだったか。

第104回公演
ケネス・マクミラン振付『マノン』全3幕

【音楽】ジュール・マスネ
【編曲】マーティン・イエーツ
【監修】デボラ・マクミラン
【美術】ピーター・ファーマー
【照明】五十嵐正夫
【衣裳・装置提供】オーストラリアン・バレエ
【芸術監督】小林紀子
【ステイジド・バイ】アントニー・ダウスン
【出演者】
マノン:島添亮子、デ・グリュー:エドワード・ワトソン(英国ロイヤル・バレエ団)、レスコー: 奥村康祐(新国立劇場バレエ団)、ムッシュー G. M.:後藤和雄(フリー)、レスコーの愛人:喜入依里、娼家のマダム:大塚礼子、看守:冨川祐樹、物乞いのリーダー:上月佑馬(萩ゆうこバレエ団)、高級娼婦:高橋怜子、紳士:冨川直樹、客/街の人々:中尾充宏、高級娼婦:萱嶋みゆき、売春婦:真野琴絵、ほか
【指揮】アラン・バーカー
【演奏】東京ニューフィルハーモニック管弦楽団


文化庁 平成25年度 トップレベルの舞台芸術創造事業

比喩的にいえば、『マノン』を描くキャンバスに、下塗りが十分に施されていないような印象。いま『マノン』を再演することの意味(動機付け)がダンサーやスタッフにしっかり共有されていたのか。
島添とワトソンとの呼吸がいまひとつ。合わせる時間が足りなかったのか。それともゲストダンサーの適性の問題か。どうやら後者らしい。
第1幕 第1場。ワトソンの挨拶のソロは、手脚が長いため一見すると大きく伸びやかな踊りだが、思ったほど味わいが感じられない。線の細さも少し気になった。続く〝出会いのパ・ド・ドゥ〟では(見るたびに途方もなく難しい/素晴らしい振付だと思わされるが)、サポートがやや不安定で、島添は美しいラインが作れない。身長差のせいもあろうが、それよりもワトソンに相手役への献身性が欠けているためだろう。むしろ島添の方がワトソンのかたち作りに貢献し、みずからのラインを犠牲にしていたというべきだ。これでは、マノンを生きることは難しかったろうが、そんな苦境にもかかわらず島添は最後までよく踊りきった。大したバレリーナだ。物乞いのリーダーを踊った上月佑馬(萩ゆうこバレエ団)には注目したのだが、あまり乗り切れていない印象。動機付けの問題か。
第1幕 第2場〝寝室のパ・ド・ドゥ〟でオーボエがメロディの頭を鳴らしたのちすぐに中断し、また吹き始めるという信じがたいミス。せっかくのシークエンスが壊れてしまった。2階の右バルコニーから見たのだが、オーボエの音が途切れた瞬間、思わずピットに目が向いた。奏者は出だしのタイミングを間違えたと思ったようだ。再び舞台へ目を向けると、なんとか持ち直そうとしている二人が居たが、踊りに影響しないわけはない。アラン・バーカーは、ほとんど楽譜に目を向けたまま手を動かしていく指揮ぶりで、いちいちオケにメロディのきっかけを与えるタイプではない。音楽としては熟した味を出せる指揮者ではあるが。それにしても練習不足なのか。
20分の休憩後、第2幕 第1場の高級娼家。マノンのソロはさすがに堂々と自信に満ちていた。次々にリフトされるシークエンスも島添は商品(物)と化した女の身体とその自意識(コケットリー)を見事に表現しえていた。カードゲームの場面では、デ・グリューがこっそりポケットへ入れたはずのカードが二度も下に落ちるアクシデント。ポケットに穴でも開いていたのか。ワトソンのソロは挨拶のソロと同じ印象。長い手脚(特に脚)の細さが目に付く一方、踊りの味は薄い。
第2幕 第2場のいわゆる〝ブレスレットのパ・ド・ドゥ〟は悪くないのだが、見ていてどうも乗れない。
20分休憩後の第3幕 第1場、ニューオリンズの港。髪を短く切られた売春婦たちの踊りは、感じが出ていた。マノンが好色な看守に目をつけられ、弦による鮮烈な音楽のなかデ・グリューがマノンの後を追いかけるシーンはなぜかいつもグッとくる(ワトソンの踊りは勢いはあるが少し雑)。
ここでマーティン・イエーツの編曲版ではチェロがメロディを奏でる間奏曲。直前からの流れを考えると、やはりなくてもよいような気がしないでもない(あってもよいが)。
第3幕 第2場。看守(冨川祐樹)とマノンの絡みはよい。デ・グリューが看守を殺し、その興奮を形象化した例の踊りは、やはり勢いは見えるが、やっつけの感が拭えない。
第3幕 第3場の沼地の場面では、ワトソンは思い切りがよいと同時に少し荒っぽい(この荒さは、プログラムの鼎談を読むと、アントニー・ダウスンのステイジングの結果かも知れない)。島添はそんな相手によく対応したと思う。
二年前の公演と比べ、脇はレスコー役の奥村康祐(二年前より大人になった)をはじめ、かなりよくなった。だが、デ・グリュー役のワトソンについては、前回のテューズリーに遠く及ばない。後者は、マクミランの深い味をダンサーとして、また、コーチ役としてカンパニーに伝える(そう見えた)と同時に、相手役の島添がマノンとして生き生きと輝くよう最大限のサポートを惜しまなかった。一方、ワトソンはパートナーや舞台を活かすよりも自分が弾けたいタイプ。つまり、献身的とは言い難いダンサーは、この種の公演(バレエ後進国のプライベートなカンパニーにゲストとして出演する)には向いていないと思う。
そもそも海外からゲストを呼ぶ理由は何だろう。集客? 見栄? 日本にデ・グリューを踊れるダンサーがいないから? 本当にそうなのか? このカンパニーには日本人の男性ダンサーを本気で育てる意志はないのか?
芸術監督は何がしたいのか。マクミランのよさを日本の観客に伝えたい? それなら、再演ではなく、他のマクミラン作品をやればよい。プログラム掲載の鼎談で、山野博大氏に再演理由を問われ、第100回記念公演の「傑作『マノン』」を「経験したダンサーたちがそろっているうちに、もう一度やっておこうと考えた」からと言っている。この理由は分かるようであまりよく分からない。要は、傑作を上演したいということか。昨年の『アナスタシア』については、このブログで、デボラ・マクミランから「売れ行きのよくない商品」をまんまと掴まされたのではないかと書いた。それは、作品選定のプロセスに疑問を呈したまでで、マクミラン作品の魅力を日本に伝えようとする意欲的なプログラミングの路線そのものを批判したものでは決してない。その路線はぜひ続けていただきたい。ただ、この国のバレエ団(の芸術監督)はダンサーたちを自己実現の手段にのみ利用することのないように十分注意しなければならない。
【追記 新国立劇場では、何度も書いたとおり、オペラもバレエもカーテンを上げたままアーティストたちに何度もレヴェランスさせる不作法を繰り返してきた。が、今回の上演ではそのようなことはなく、まっとうなカーテンコールだった。芸術監督もしくはステージング担当者の意向だろう。】