オイリュトミー版『日本国憲法を踊る』

笠井叡構成・演出のオイリュトミー版『日本国憲法を踊る』を観た(4月28日 17:30/国分寺市いずみホール)。出演は笠井叡、天使館オイリュトミー・グループ他。笠井の舞台を見るのは昨年の『今晩は荒れ模様』(世田谷パブリックシアター)以来だが、今回もたいへん面白かった(残念ながら2014年の同名舞台は見ていない)。
男女数名が法服のような長い衣裳に赤や緑の薄地のケープを纏って登場し、ベートーヴェン交響曲第3番《英雄》(1804)第一楽章に合わせて踊りだす。指揮するような動きなど。はじめは怪しい新興宗教の儀式みたいな胡散臭さを感じた(あのコスチュームはオイリュトミー特有のものなのか)。「英雄」が止むと、女性が数人ずつ左右から見合わせるように座り、「明治二十二(1889)年 大日本帝国憲法 告文」を一斉に朗誦しはじめる「皇祖皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ・・・」(配布されたプログラムには使用テクストの引用が大きな字体で印刷されている)。その言葉に合わせて中央奥に構えていた男性たちが前に進み出て踊る。やがて教祖然とした笠井叡が白い服に身を包み上手から登場。笠井を中心に言葉を立体化するような振りをユニゾンで踊る。笠井の動きは自在でキレがあり、さすがと思わせる。次第に胡散臭さは薄れ、舞台に引き込まれていく。朗誦は、ルドルフ・シュタイナーの「母親のための祈り」、「一七八九年 フランス人権宣言」、シュタイナー幼児の祈り」(ここだけドイツ語で)と続いていき、その都度、朗誦者と踊り手は様々に入れ替わる。「古事記 神代の七代」では、派手な柄シャツを着た男性(笠井瑞丈)が現れ、セーラー服姿の若い女性三人によるラップまがいの朗唱にけしかけられ、熱く踊る。
再度「大日本帝国憲法」が取り上げられ、第一条第三条第四条が朗誦される。第十一条天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」のとき、爆撃音が聞こえてきた。このあと上手から絣(?)に赤帯を締めた女性が登場し、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」(1904)の全文を様々に調子を変えて朗誦する「あヽをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ・・・」。このとき緑色の服に軍帽を目深に被った男が、言葉に突き動かされるように踊る。その動きは自由無碍で切れ味もよく、思わず頬が弛んだ。これは誰? これも笠井叡? こんなに若い? と驚いていると、上手からよれよれの軍服を着た笠井氏本人が出てきた(後で聞くと前者は寺崎礁だったらしい。あれが七十三歳ならバケモノだ。そうでなくとも十分バケモノだが)。ここで「君が代」(器楽のみ)に続き、「昭和天皇 玉音放送」が流される。戦死者たちを悼むように、《英雄》第三楽章の葬送行進曲を男女が踊る。次に笠井叡が白服で再登場し、三島由紀夫の『英霊の聲』(1966)でソロを踊る。みずから朗唱しつつ。「今、四海必ずしも波穏やかならねど、/日の本のやまとの国は/鼓腹撃壌の世をば現じ/御仁徳の下、平和は世にみちみち・・・」。テクストは、二・二六事件で蹶起し処刑された青年将校らの英霊が、霊媒者川崎青年の声帯を通じて語る、戦後日本の堕落と天皇人間宣言批判である「・・・かかる日に、/などてすめろぎは人間となりたまいし」(なぜ天皇は人間となられたのか)。笠井の声には吃驚するほど張りがあり、踊りもすこぶる軽やかだ。時々アドリブで呟きを入れると会場では笑いが出た。ただし、このソロは少々長すぎた。このあと女性たちが上手に陣取り「日本国憲法」を力強く朗誦し、それに合わせて大勢の男女で様々に動き、踊る。本公演の山場だ。
前文「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する・・・」そうだ、その通りだ「・・・これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」。第一条天皇は、日本国の象徴であり・・・」、第二条皇位は、世襲のものであつて・・・」、第九条「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し・・・」、第十二条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は・・・」、十三条「すべて国民は、個人として尊重される・・・」(この部分は目次にはあるが本文は落ちている)、第十四条「すべて国民は、法の下に平等であつて・・・」、第十九条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」、第二十条「国及びその機関は、宗教教育その他・・・」、婚姻について定めた第二十四条では男女のペア(夫婦)で踊る、第六十六条内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」。この朗誦を聞き、踊りを観ながら、前半の大日本帝国憲法の第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」がエコーのように想起された。なるほど。第九十六条「この憲法の改正は、各議員の総議員の三分の二の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない」。ふむふむ。第九十七条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、冒すことのできない永久の権利として信託されたものである」。その通りだし、そうあるべきだ。舞台の踊りも満席の観客もどんどん熱気が増してきている。第九十八条「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」、イエス! 第九十九条天皇又は摂政及び国務大臣、国家議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」。聞いているか! 最後に再び《エロイカ》の冒頭に合わせて踊り、エンディング。
素晴らしい。条文の力強い朗誦から生ずるエネルギーをダンサーたちが即座に受けとめ、それを、空間を劈(つんざ)くように動いていく身体の熱量が、こちらにどんどん食い込んできた。スタンディングする人が次々と。憲法を軽視しているとしか思えない権力者が少なくない昨今、条文の決然たる朗誦と入魂の踊りは痛快だった。といっても、笠井は憲法改正に反対するためにこの舞台を上演したわけではないだろう。ただ、日本国憲法を、その「淵源を辿」るべく「歴史の地下水」脈のなかに置き、その条文を声とカラダで舞台に現前させてみせただけである。会場のいずみホール(370席)は土壁で作られた古墳のような趣があり、高い天井はタケミツメモリアルのような変形ピラミッド型だった。朗誦が喚起する死者の世界を踊り手の身体において現在に結びつける公演にはぴったりだ。
ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)のオイリュトミーについては何も知らない。踊りを見ながら、なぜかビントリーの『カルミナ・ブラーナ』、特に神学生の振付を想起した。作曲したカール・オルフ(1895-1982)はシュタイナーではなく、エミール・ジャック=ダルクローズ(1865-1950)の「リトミック」rythmique(eurhythmics)に影響を受けたらしい。そういえば、一昨年に観た「ホドラー展」に「オイリュトミー」という題の絵(1895)があった。ホドラー(1853-1918)は音楽家ダルクローズと関わりがあり、これもシュタイナーのオイリュトミーとは直接関係ないようだ。ギリシャ語の「eu 美しい」と「rythmos リズム」を合わせたというこの言葉(eurythmy)は、当時のアート界では共通語だったのか。いずれにせよ、これを機にシュタイナーの著作を読んでみたい。
音楽は唯一《英雄》(エロイカ)が使われた。ベートーヴェンは当初このシンフォニーを「ボナパルト」と名づけナポレオンに献呈するつもりだった。だが、ナポレオンがみずからを皇帝と称したことを知り、取り止めた。そういう話がある。実際には複雑な事情があったようだが、メイナード・ソロモンによれば、「ベートーヴェンボナパルト啓蒙主義的な統率力の体現者と見て」崇拝していたが、同時に「ボナパルトの独裁君主的な行為によって裏切られたと感じていた」。彼のこうした「両面価値[アンビヴァレンス]は彼の時代の中心的な葛藤」であり、まさに「《英雄》交響曲の中に表現されたものは、この葛藤である」(『ベートーヴェン』徳丸吉彦・勝村仁子訳)。笠井が強調する「歴史の地下水として流れている『自由・平等・博愛』の精神」(フライヤー)は、まさにベートーヴェンが《英雄》の創作時に信じていた「啓蒙主義の価値すなわち、利他的な愛、理性、そして人間的な理想像」(ソロモン)と同一の水源から生まれたものだ。そうだとすれば、この「精神」をカラダに汲み上げるための道筋として、大日本帝国憲法から始まり、フランス人権宣言等を経て、日本国憲法へと至る本公演に、《英雄》交響曲の選択はきわめて適切だったといえる。英雄の颯爽たる登場(第1楽章)とその死/葬送(第2楽章)・・・。ついでにいえば、ヨーロッパ語では皇帝と天皇は同じ単語である。