彩の国さいたま芸術劇場開館20周年記念 さいたまゴールド・シアター×瀬山亜津咲『KOMA'』+『コンタクトホーフ』のカーテンコール

初日を観た(8月28日 19時/彩の国さいたま芸術劇場 小ホール)。

演出・振付:瀬山亜津咲(ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団ダンサー)
演出・振付補:ファビアン・プリオヴィル
出演:さいたまゴールド・シアター
石川佳代 、上村正子、北澤雅章、佐藤禮子、田内一子、高橋 清、滝澤多江、たくしまけい、竹居正武、谷川美枝、田村律子、都村敏子、寺村耀子、遠山陽一、林田惠子、百元夏繪、益田ひろ子、美坂公子、宮田道代、渡邉杏奴
主催・企画・製作:公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団
助成:一般財団法人地域創造
平成26年文化庁劇場・音楽堂等活性化事業

セットは何もない。U字型の客席がステージの手前半分を取り囲む。買ったチケットはステージと同レベルの正面最前列だった。かぶりつきは苦手のため、後方の空いている席に変えてもらった(正面の位置が6時とすれば4時の最後列)。動きの細部や声はやや分かりにくかったが全体は見渡せた。出演者の出で立ちは、昨年同様、リハーサル用の普段着。
盛り沢山だった昨年のWork in Progressより印象はあっさりめ(【ザ・ファクトリー3】 さいたまゴールド・シアター×瀬山亜津咲 WORK IN PROGRESS/磨かれた魂の希有なタンツテアター - 劇場文化のフィールドワーク)。多分この本公演では、依然ピナ・バウシュの手法を用いながらも、ピナ作品の真似はせず、ゴールドのメンバーの「内面から生まれ湧き上がってくるもの」(瀬山亜津咲/Message)になるべく限定しようとした結果だろう。見ていてそう感じた。
以下、覚えているシークエンスを順不同に記す。
冒頭、一人の女性がつま先立ちで回転しながら両手をひらひらさせて舞台を一周する。タイトルの独楽(KOMA)?
瀬山亜津咲(姿は見えない)がマイクで質問し、答えに応じて20名のダンサーが場所を移動する。イエスは舞台奥、ノーは中央に。「埼玉県人ですか」「愛のために嘘をついたことがありますか」「本当はダンスは好きではないですか」・・・。
二人の女性がゆっくり身体を動かしながら重心を下げていく。この間、他のメンバーたちは、その両手に日用品を持たせる。彼らは次々に入れ替わりそのモノを取り替えていく。
「I'm not, I'm not what you think I am.」(違う、私はあなたが思っているような人間じゃない)と、始めは穏やかに、やがて誰かに訴えるように繰り返す男性。終いには涙ぐみながら。
一人の女性が数個のブロックを奥の壁際に積み上げ、それを踏み台に壁へ這いつくばるような格好をする。よじ登るように広げた両掌を上下に動かすと、ヤモリに見えた。その後、別の男性が壁から離れた場所で上を見ながら両手を上げる。天への志向。曲はバッハのカンタータか、Ich habe genug(私は満ち足りた)の歌詞が聞こえた。もしそうならぴったりだ。
二人一組で(知人によれば)身体を一カ所だけ接触し、ゆったり踊るチークダンス。照明が各ペアを円形に照らし、いい感じだ。
一人の女性(たぶん前回冒頭で手の踊りを見せた百元夏繪)が〝ねんねこ〟もしくはおんぶ紐で赤ん坊(人形)を背負い、子守歌を歌いながら手前から登場。ステージ中央に座り、それを一旦ほどいたうえで、何やら器用そうにつなぎ合わせていく。この間、鼻唄は英語の「ケセラセラ」に変わる。やがておんぶ紐から布製のショルダーバッグが出来上がる。
全員がステージ奥からゆっくりと客席の方に向かって歩き出す。音楽は直前の「ケセラセラ」だが、今度はドリス・デイの力強い歌声。まさに「Whatever Will Be, Will Be(なるようになる)」で、彼らは目をつむったまま歩いていたのだ。見ていて何度も頬が弛み、思わず笑ってしまった。面白い。正面の客席にまで達した〝恐れ知らず〟は二人いたが、あまり前に進んでいない人もいるし、実に様々。キンさん(遠山陽一はそう呼ばれているらしい)はもちろん前者だ。目を開け、最前列の客に当たりそうなほどなのに驚いている。すいませんと謝っていた。ところで、腹の底から歌うドリス・デイの声を聴くとヒッチコック監督の映画『知りすぎていた男』(1956年)を想い出す。あのイギリス人監督は明らかにヨーロッパ人とは異なるアメリカ人(デイやジェームズ・ステュアート)の〝よさ〟を見出していた。前者の洗練を目指す在り方には不在の、素朴な人間の味。今年の三月に見た『コンタクトホーフ』と『KOMA'』の関係になぞられたくなる。
キンさんが乾布摩擦のような動作を繰り返す。つまり、両手で顔を拭い、一方の手で他方の腕を交互に擦り、両手で上半身の前面を、さらに前傾して両腿から両膝を一気に拭き下ろす。この動作を何度も繰り返す。その間、他のメンバーたちは・・・。
マイクの前で、二人の男性(北澤雅章と竹居正武か)が、相撲を取る。といっても、はじめの立ち会いだけ。今度は二人とも正面を向き、「あ」、「うん」と声を出す。次に、互いに向き合い「あ」「うん」。次は、共に下手を向いて(つまり互いに相手の顔は見えない)「あ」「うん」。それから、互いにおしりを向け合ったまま、「あ」「うん」。さらに、四つん這いの一方の背中に他方が乗って「あ」「うん」・・・。次第に〝阿吽〟の呼吸は若干ズレ気味。面白い。
杖の男性(最高齢の高橋清)が一人の女性(前回名古屋弁で勘定にまつわる一人芝居をした田内一子)を杖に見立て下手の袖から登場。「出会いというのは人間だけかと持っていたけど・・・」とか言いながら、ステージを歩く。
一人の女性が息を吸い込んだ後、その息を何か囁きながら別の女性にぶつける。「元気にしてるのー?」「ちゃんと食べてるのー?」「お嫁さんとはうまくいってるのー?」等々。すると、相手は、その息の力で身体が吹き飛ばされたとでもいうように、ふらーっと息の発信源から遠ざかる。この繰り返し。
息を吹きかけられていた(?)女性が一人で歩き始める。ステージを一周するように。すると別の一人が近づいてきて女性の肩に手をかけ、共に歩く。また別の一人が近づき、前の人の肩に手をかけ共に歩く。また別の人が・・・。こうして次々に人が増えていき、互いの肩に触れたまま談笑しながら歩いて行く。ちょっとグッときた。だが、この談笑は哄笑に変貌する。グッとくる感慨すら笑い飛ばすように。
杖の男性が椅子に座っている。女性の、あるいは法衣のような衣裳を着けて。彼の前に黒づくめの女性が立ち、振り写しするように踊りの動きを伝える。音楽はイタリアオペラのアリア。ベッリーニ? ソプラノのソロと合唱。振り写しを当初は益田ひろ子かと思ったが、それなら黒子の衣裳は必要ない。ゴールド以外の別人か。その間、他のメンバーは・・・。
最後は、全員がマットとタオルを持ち寄り、マイクの瀬山による指示に従い、ストレッチする。「息を吸って、吐いて、ストップ」。健康診断のレントゲン撮影を想い出す。が、技師のせっかちな指図と違い、瀬山の口調はどこまでも優しい。
本公演が前回とは少し感触が異なるのは、繰り返せば、オリジナリティに拘ったからだと思われる。ゴールド・シアターのメンバーの内面(オリジン)から、その身体から掘り起こした素材のみでの作品造りを目指す。その分、舞台が少し地味になったのは事実だ。だが、物まねで派手に見えるよりよかったと思う。ただ、知人は、前回見られたような「日本の身体性が失われた」という意味のことをいっていた。そこまでは感じなかったが、ひとつ気になるのは「演出・振付補」としてファビアン・プリオヴィルの名が記されている点だ。彼のクレジットへの追加はこうした変化と何か関係があるのだろうか。いずれにせよ、私は舞台を楽しめた。前回も書いたように、やはり文化的に地続きの作品を観るのはたいへん気持ちがよい。たとえば、この『KOMA'』と先の『コンタクトホーフ』のどちらを再度見たいか問われれば、躊躇なく『KOMA'』と答えるだろう。ところで、タイトルのKOMA'とはなに? ネットの翻訳にかけるとアイスランド語で 'come' の意と出てくる。「来る」? 「来い」? Aのあとの ' は? アポストロフィ? よく分からない。
ついでに、久し振りのピナ作品だった『コンタクトホーフ』(3月22日15時/彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)の感想をごく簡単にメモする。それも上演が終わったあとのカーテンコールについて。ダンサーたちはいつものように横一列に並ぶ。若手は多少の笑顔を見せたが、古株の表情はかなり硬い。特に、ネズミを投げる男性に怖がって逃げる女性を演じたナザレット・パナデロなどは、(投げる男性同様)夢から覚めたような憮然とした表情だった。みなピナの不在を全身で感じているように見えた。再度のコールでいっそう客席に近づいて並ぶ。ピナがそこに並んだときのように客席でスタンディングする人は居ない。が、拍手はさらに温かさを増した。すると、ダンサーたちの顔も少しほぐれたように見えた。だが、もうピナの新しい作品を踊ることはできない。新たな展開はもうないのだ。ダンサーたちのありようがそう告げていた。ピナの不在の意味をひしひしと感じさせるカーテンコール。この公演でもっとも感情が動いた時間だった。