新国立劇場バレエ『ジゼル』(2)ジゼルが狂乱した理由/死者を生きた米沢唯/幽玄美

新国立劇場バレエ『ジゼル』の三キャスト目を観た(2月23日)。

音楽:アドルフ・アダン
振付:ジャン・コラリ/ジュール・ペロー/マリウス・プティパ
改訂振付:コンスタンチン・セルゲーエフ
美術:ヴャチェスラフ・オークネフ
照明:沢田祐二
指揮:井田勝大
管弦楽:東京交響楽団
ゲストバレエマスター:デズモンド・ケリー


【2月23日(土)2:00p.m.】
ジゼル:米沢 唯
アルベルト:厚地康雄
ミルタ:厚木三杏
ハンス:輪島拓也
クールランド公爵:貝川鐵夫
バチルド:湯川麻美子
ベルタ:西川貴子
村人のパ・ド・ドゥ:細田千晶 奥村康祐
ドゥ・ウィリ:細田千晶、寺田亜沙子

米沢唯は演じない。動きや踊りがすべて内側から生きられたような在り方をする。
第1幕の、特にバチルド(湯川麻美子)とのやり取りは特筆に値する。狩の途上で立ち寄った公爵たちを母娘で接待する場面だが、まずジゼルは公爵の娘バチルドの美しさに目を奪われうっとりする。呆然としたまま丁寧にピッチャーからカップへ飲み物を注ぎ、カップをエプロンで慈しむように拭い、彼女の前にそっと置く。この間、ジゼルはバチルドをまったく見ない。だが、公爵のカップにつぐのを忘れるほど意識は全面的にバチルドの方へ、より精確には、すでに心中にくっきり刻まれたバチルドのイメージに注がれている。華やかな貴族女性を前に、憧憬と断念が同居したような絶妙な佇まい。そんな娘の代わりに母のベルタが手早く公爵のカップに注ぐのだが、西川貴子のつぎ方がじつに機能的で、両者の対照性がジゼルのこころの動きをいっそう明確に浮かび上がらせた。ここでのジゼルとバチルドとの〝対話〟は、続くジゼルの狂乱の場面の心理的な伏線として機能する。
バチルド同様、ジゼルにも愛を誓った男性がおり、その恋人をバチルドに紹介すべく舞台上を探し回るシークエンスがある。アリストテレスの用語でいえば、「筋の組み立て」として後の「認知」による「逆転」をより衝撃(悲劇)的なものにするための趣向だろう。一方で、ここはいつも心理的には若干不可解な感触が残っていた。ところがこの日の舞台で腑に落ちた。これほど必死で恋人をバチルドに見せようとしたのは、〝憧憬と断念〟で揺らいだ自己自身を修復しようとする衝動ではないか。つまり、ジゼルはただ男に裏切られたのではない。その男が身分違いの貴族であるうえに、こともあろうに〝憧憬と断念〟の淵源である、あの貴族の女性と愛を誓っていた。この事実が、すでに揺らいでいたジゼルの根幹をさらに激しく傷つけ、その精神を惑乱し破壊したのである。米沢唯によって生きられたジゼルを見ながら、こんなことを考えさせられた。ところで、彼女のある種〝静謐な狂乱〟は、なぜか歌舞伎や能を想起させたが、その理由が次の幕で明らかになった。
第2幕での米沢唯は、終始、死者を生きていた。踊りを強要するウィリたちからアルベルトをかばうときも、死者として、まったく感情を抜いた在り方。アルベルトとのパ・ド・ドゥでは、ジゼルはモノ(死体)化したように持たれ、支えられ、持ち上げられる。まるで体温まで失っているかのよう。この若いダンサーの思いを想像し、ちょっと震えた。幕切れでウィリたちが消えて行った後、舞台中央に横たわるアルベルトの背後から、月明かりのなか後方へ下がっていくジゼルの姿は、本当に亡霊に見えた。しかもこのうえなく美しい。能のような幽玄の美が現出した。狂乱の場で能を連想したのは、そのときすでに、死が米沢唯によって半ば生きられていたからではないか。そうだとすれば、彼女の身体が、第2幕での亡霊としての在り方を先取りしていたのかも知れない。
厚地康雄のアルベルトは、貴族として農民たちとは異なる存在感を出し、好演した。第2幕で黒のマントに身を包み白い百合の花を持ってジゼルの墓を訪ねる場面では、カッコつけずほとんど自意識を感じさせなかった。ナルシスティックにならない点はよいのだが、少なくともオーボエのメランコリックなソロに見合う登場の仕方を望みたい。少し女性的な印象だった。パ・ド・ドゥはよいと思う。ヴァリエーションは端正で大きな踊りだった。
ペザントの二人は華やか。奥村康祐はイメージをかたちにしようとする意志は感じるのだが、踊りが基本から逸れているように見える。が、明るくポジティヴな心性で、客席にエネルギーを放射する才が備わっている点は評価したい。細田千晶は少し硬かったが、悪くない。母の西川貴子は上記のとおり好いと思う。バチルド役の湯川麻美子は、貴族女性の華やかさ、美しさ、農夫から見た〝届かなさ〟を見事に体現していた。ハンス(イラリオン)の輪島拓也は悪くない。ムンタギロフの従者役をやったとき、ハンスみたいだなと思った理由が飲み込めた。今後は両役を差別化できるよう期待したい。
オーケストラは、疲れからか、ホルン、フルート、クラリネット等で少し綻びがあった。第1幕でのジゼルのヴァリエーション等で弦の演奏にもう少し〝幸福感〟(ロマンティックバレエの肝)が出るとよいのだが。
ミルタ役の厚木三杏は、ウィリの女王としての存在感があり、舞台での立ち姿が美しかった。ハンスやアルベルトらを拒絶しさらなる踊りを要請する際は、強すぎず、かといって軽くもない、ほどよい在り方。群舞も初日同様、とてもよかった(例のアラベスクしたまま横に移動する場面では残念ながら拍手が出てしまったが)。
厚木三杏も、『カルメン』や『アンナ・カレーニナ』で見せたように、演技するというより役を生きるタイプだが、厚木の在り方は立体的で、ある意味、正統的といえる。一方、米沢唯は、変な言い方だが、その内面が外側に偏在し、遠近法のないその平面を観客が見せられる、そんな感じがする。能や歌舞伎を連想するのはそのためだろうか。いずれにせよ、日本人がバレエを踊ることの意味を再考させる希有なダンサーだ。さらに注視していきたい。