新国立劇場バレエ『ラ・バヤデール』2015 三日目・四日目/大きく前進した米沢唯

『ラ・バヤデール』の三日目と四日目を観た(2月21日,22日 14時/新国立劇場オペラハウス)。
21日(土)は終演後、大原舞踊芸術監督による2015/16シーズン演目説明会を聴き、 18:30開演のオペラ研修所公演《結婚手形》/《なりゆき泥棒》を見るべく中劇場へ直行(前日の初日も見た)。翌22日(日)は、仕事で午前の会議に出席し、午後の会議は欠席して初台へ。この日は15時からのBCJ定演《汝の死を憶えよ〜追悼のカンタータ集》と重なったが、もちろん唯ちゃん主演のバレエを優先させ前者のチケットは知人に進呈。ちょっと慌ただしい週末だったが、特に楽日は全身全霊を打ち込んだ米沢唯の舞台に立ち会えて本当に幸運だった。

振付:マリウス・プティパ
演出・改訂振付:牧 阿佐美
音楽:レオン・ミンクス
編曲:ジョン・ランチベリー
舞台美術・衣裳・照明:アリステア・リヴィングストン【なぜか今回のプログラムには記載なし】
照明:磯野 睦【同上】
指揮:アレクセイ・バクラン
管弦楽:東京交響楽団


キャスト
ニキヤ:長田佳世 (21日)/米沢 唯 (22日)
ソロル:菅野英男 (21日)/福岡雄大 (22日)
ガムザッティ:本島美和 (21日) /長田佳世 (22日)
ハイ・ブラーミン(大僧正):輪島拓也 (21日, 22日)
ラジャー(王侯):マイレン・トレウバエフ (21日, 22日)
マグダヴェヤ:八幡顕光 (21日, 22日)
アイヤ:佐々木美緒 (21日, 22日)
黄金の神像:福田圭吾 (21日) /奥村康祐 (22日)
つぼの踊り:細田千晶 (21日) /原田舞子 (22日)
[影の王国]第1ヴァリエーション:柴山紗帆 (21日, 22日)
第2ヴァリエーション:丸尾孝子 (21日, 22日)
第3ヴァリエーション:玉井るい (21日)/細田千晶 (22日)
児童バレエ:日本ジュニアバレヱ(指導:鈴木理奈)

21日(土)は、三階左バルコニーから見た。
演奏はやはりよい。弦楽器、木管等々。長田佳世のニキヤは立体的でクラシカルな踊り。ただ、ニキヤ役にどこか居心地が悪そうに見える。
本島美和のガムザッティ。ラジャー(マイレン・トレウバエフ)とハイ・ブラーミン(輪島拓也)の話を立ち聞きするシーンは見損ねた。三階左バルコニーだと死角になるのか。ガムザッティとニキヤの対決。本島=ガムザッティの優越、見下し、動揺、憎悪。この時の長田の演技は、矜恃と愛の誓いへの信が弱い。
二幕。本島は、上手から下手へ廻転しながら移動し、菅野がサポートするシークエンスで、少しぐらついた。ソロル役の菅野英男のヴァリエーションはよい。本島はその後もち直し、イタリアンフェッテ等、なんとかこなした。ニキヤ登場後も、ドラマは立ち上がらず。長田は踊りにあまり勢いが感じられない。福田圭吾のブロンズは重さがあってよい。初日の八幡顕光は、機敏でよく動いたが、踊りとしてのイメージというか様式性がさほど感じられなかった。
三幕。ソロルが阿片を吸ったのち上手後方にニキヤの幻影が現れるが、菅野はベッドから起き上がるのが遅く、視線を向けた先にはもう幻影は消えていた。「影の王国」の第1ヴァリエーションを踊った柴山紗帆が目に付いた。菅野のヴァリエーションは丁寧に踊っていたが、後半はスタミナ切れか。幕切れのニキヤのヴェールの端をソロルが持つところでカーテンが降りてしまった。
全体的にミスが多い。長田はもっと踊れるはずだが、内側から突き上げるものが乏しい。本島と菅野はあまり覇気が感じられない。少し心配だ。


22日(日)の楽日は1階15列の中央から。
前奏の途中でカーテンが上がると、薄暗い舞台を覆う木々が上がっていき寺院の入り口が見えてくる。森に分け入って寺院に近づいていくようだ。厳しい戒律を体現した僧侶たちを彷彿とさせるブラスの重々しい動機が印象的。
一幕一場でニキヤ=米沢唯がハイ・ブラーミン(輪島拓也)に促されて踊る踊りは、まさに巫女。両腕を大きく動かすその先には、明らかに人間界を越えた神々の存在がある。神と交通する舞姫。聖なるものへの奉納としてのダンス。火炉の前で両手を広げると煙が立ちのぼる。まるで、ニキヤの〝気〟に火神が応えたかのようだ。フルートのソロもよい(アリストテレス曰く「笛は人を恍惚とさせる」)。こんなニキヤのソロは初めてだ。米沢唯の動きはすべてを見ることができる。というか、時間が細分化されているように感じるためすべての動きがよく見えるのだ。この感触は『シルヴィア』以来か。ハイ・ブラーミンの求愛を受けたとき、ニキヤは初めどういうことか分からない。「当惑」しているのだが、この言葉が指し示すより以前の混沌。この聖職者が最高の位階(ブラーミン)を表す(?)冠を脱いでさらに言い寄ると、同じ神へ帰依する者として、きっぱり拒絶する。先の巫女としてのソロダンスと同様、ニキヤのバヤデールとしての矜恃が見て取れる。米沢の演技(在り方)は、あらかじめ用意した定型の反応を相手の動きに合わせて提示するやり方とはまったく異なり、つねに〝いま、ここで〟何かが生まれ出てくる。ソロルと密会する前、先にその場に現れたニキヤは愛する人を心待ちにする。もはや神々に仕える巫女ではなく、地上の人間(女)がここに居る。再会の喜び。ソロルとのパ・ド・ドゥは、先のソロとは打って変わり、人間的な地平に立つ生身の人間として歓びを身体全体から発散させる。米沢の踊りや在り方から感受される精神の領域の広さがニキヤを大きく見せる。一方、福岡雄大は若干幼く感じられ、二人が寄り添うと、ニキヤが〝姐さん〟のように見えなくもない。
一幕二場。ここでもいったん森の木々が舞台の上部を覆うが、音楽とともに上へ引き上げられ、代わりに、竹細工を思わせる細かな格子の壁などが降りてきて、ラジャーの宮殿の一室となる。
人払い後のラジャー(マイレン・トレウバエフ)とハイ・ブラーミン(輪島拓也)の対話は、初日組(貝川鐵夫=ラジャーとトレウバエフ=ハイ・ブラーミン)の方が科白が〝聞こえた〟。ガムザッティの長田佳世は王侯の娘にふさわしい気品のある佇まい。ニキヤ=米沢は舞姫としての立場(地位)をわきまえた在り方。ただ、ガムザッティから、密かに愛し合うソロルとの結婚を伝えられ、さらに、宝石(首輪)との交換に身を引くよう命じられるに及び、ニキヤは上手の先を指さし、ソロルが祭壇の前で自分に愛を誓ったことを告げる。結局、ガムザッティへの殺人未遂というかたちでこの場は終わるのだが、どこまでも、いわば〝成り行き〟でそうなったにすぎない。米沢の動きはそう語っている。そこにたまたまナイフがあったから、ニキヤはそれを手に取り、その物(ナイフ)に促されるように振り上げたまでである。だから、召使いに止められると、ニキヤはなぜ自分がこんなことをしているのか分からない。ゆえに、この舞姫は戸惑ったまま、加害者ではなく被害者のように走り去るのである(事実そうなのだ)。すべての感情は、一定の物理的な条件下で、相手の言動との関係の中で湧いてきたにすぎす、また、そうして生まれた感情に突き動かされるように行動したにすぎない。王侯の娘を刺し殺す凶悪さがニキヤという舞姫にそなわっていたわけでは決してない。米沢の人物造形は、そう告げている。だが、この〝なりゆき〟こそ〝運命〟の、あるいは〝業〟(カルマ)の中身なのではないか。「人に恋する熱情を内に秘めて神に仕える巫女として踊」る一幕のソロと、「発作的にガムザッティにナイフを持って向かっていく姿は同一人物かしらと驚くこともありますが、そういう違和感を感じさせず人の持つ業の深さを表すことができたら」と、このバレリーナは語っている(プログラム)。舞台は見事にそうなっていた。米沢の人物造形に見出せる洞察は、野田秀樹の『The Bee』やその原作である筒井康隆の「毟りあい」同様、犯罪の容疑者にしばしば注がれる安易な先入見への鋭い批評ともなりえている。
第二幕。王宮の中庭。といっても、奥はベランダで、タージ・マハルのような別の宮殿の影がやや下に見えるから、上階だろう。蓮の花を描いた大きな掛け軸のような幕がいくつかあって、捲り上げられている。色彩も含め、美しくかつ涼しそう。素晴らしい美術。
つぼの踊りの原田舞子は、落ちないかなあと心配そうな表情で頭のつぼを両手で押さえながら踊る。子供とのやりとりも芝居気があって楽しめた。原田は研修生のときから注目していたが、ますます楽しみ。
長田のガムザッティは気品のある踊り。完全ではないが、婚約披露の宴にふさわしい華やかな踊り。長田はニキヤよりガムザッティ役の方がしっくりくるのかも知れない。ソロルの福岡は戦士らしい大技(特にフィニッシュ)を披露。ガムザッティとソロルが上手で譲り合い、なかなか座らない(段取りが不十分?)。ついこのやりとりに気を取られ、気が付いたらニキヤはすでに二人の前にいた(つまり登場の瞬間を見損ねた)。ニキヤの〝恨み節〟は、ソロルに、そしてそこに居合わせた全ての人間に、さらに大地にすら、この理不尽さを訴えかけるような、強い〝気〟を込めた踊り。米沢の呼吸はバクランを経由してチェロに伝わり、ニキヤの恨みが乗り移ったかのよう。花籠を受け取ると、ソロルからとの言葉を信じ、バヤデールとしてのプライドをかけ、全身全霊を打ち込んで踊る。後半では、客席に向かって踊るが、死を目前にしたニキヤの最期の踊り*1に米沢唯のダンサーとしての命がけの気迫が重なり、鬼気迫るものがあった。バクランが反応しないはずがない。花籠に仕組まれた毒蛇にニキヤが噛みつかれるシーンでは、ニキヤの首が本当に噛みつかれているように見えた。米沢のこだわりは半端ではない。
第三幕。景山梨乃の奏でるハープはロシアのオケを思わせる力強さで、日本では珍しい。ハープが優美に聞こえるためには、強さが必要なのだ(ホルンも同様)。
米沢の白いチュチュでの踊りでは、ラインの美しさに眼を見張った。手脚の伸びがとても印象的で、以前より身体が大きく見えた。死んだニキヤの幻影という役柄を保持したまま、古典的な踊りの醍醐味を味合わせてくれる。ヴェールの左右両廻転では、こういう踊りだったのかと初めて腑に落ちた。
福岡のヴァリエーションは少し息切れもあったが、さすがに力強く質が高い。
寺院崩壊後、廃墟の先に現れたニキヤ=米沢は、白いヴェールを両手で掲げ、ソロルの方を見る。毅然としたなかに慈悲や慈愛を感じさせるその佇まいは、まるで観音様のよう。こんなニキヤは初めてだ。そして、ヴェールの端を地面に落とし、その気があるならそれを持ち、私についてきなさい、と。だがソロル=福岡は、誓いを裏切った自分にそんな資格があるのかと悲痛な表情を浮かべながら、彼女に従う。だが、ほどなく力尽き、ヴェールから手が離れてしまう。ニキヤ=米沢は、観音菩薩のように、もはやいっさいの地上的な感情や想念からは超越し、天の道を歩んでいく。しびれた。乗りまくったバクランによる高揚した音楽*2。素晴らしい幕切れだった*3
米沢唯は、場面毎にまったく様相の異なる舞踊と演技(在り方)を見せてくれた。一幕一場では神々に仕える巫女の踊りと恋する女の踊り。一幕二場では、運命(業)に翻弄されるプロセスを可視化する演技。二幕では、理不尽を訴える切々たる踊りと舞姫(バヤデール)としての矜恃をかけた命がけの踊り。三幕二場では、美しいラインを見せる幻想的でクラシカルな踊り。幕切れの三幕四場では、観音菩薩のような人間界を超越した存在のありよう。すべてはニキヤというひとりの舞姫(巫女)が開示する在り方なのである。初日のガムザッティ役を想い出せば、今回、米沢はとんでもない離れ業をやってのけたことになる。
初役時の『白鳥の湖』や『シルヴィア』で表現者としてラディカルなまでに役を生きて見せた米沢は、その後、バレエダンサーとして、ラインの美しさを意識すべく、前者の(〝気〟を発する)在り方をいくぶん抑え始めた。『パゴダの王子』や『カルミナ・ブラーナ』等は例外としても、その分、当初の面白さは少し影を潜めた感じだった。それが、シーズン開幕の『眠れる森の美女』でラインの美しさを磨き、二回目の『シンデレラ』を経て、この『ラ・バヤデール』では、バレエとしての美しさを高い次元で実現しながらも、思いっきり役を生きる在り方を復活させ、両者を見事に共存させたのだ。米沢唯は、バレエダンサーとして、また表現者として、大きく前進した。
バクラン指揮の東京交響楽団が特筆に値することは初日の感想ですでに述べた。今回、改めて感じたのは、牧阿佐美による結末の説得性と、美術・衣裳(・照明)の素晴らしさである。幕切れについては上記のとおり。だが、後者については、前ブログに記したように、プログラムからアリステア・リヴィングストンの名前が消えている。もうひとりの照明、磯野睦の名も。ホームページも同様だ。これはうっかりミスでは済まされない。知的所有権著作権)の所在はしっかり明記すべきである。それともなにか理由があるのか。
最後に楽日の配役について一言。米沢ニキヤに本島ガムザッティを合わせれば、もっと火花が散っただろう。さらにいえば、菅野がソロルなら、米沢ニキヤが〝姐さん〟には見えなかっただろう。ムンタギロフをシーズンゲストに迎えているため、組み合わせが難しいのは理解できる。ただ、大原監督は、ビントリーとは異なり、何よりも踊りのテクニックを最優先させてキャスティングしているように思える。バレエは舞踊だから当然ともいえるが、もっと演技力や存在感等を含め、トータルに評価してもよいのではないか。ただし、初日に小野と米沢を組み合わせた功績は評価したい。お陰で、希有なドラマを見ることができたから。

*1:ニキヤ自身は、もちろんこれが最期の踊りになるとは知るよしもない。が、巫女の直感で、何かを感じ取っていたかも知れない。米沢の踊りはその可能性を示唆していた。

*2:初日の感想に、「終曲後なぜか『マノン』の沼地のパ・ド・ドゥの音楽が聞こえてきた」と書いたが、その理由が分かった。沼地の幕切れはマスネーのオラトリオ『聖母』から第四場「聖母の法悦」が使われ、そこでは聖母マリアの被昇天が描かれている(詳しくはアメリカン・バレエ・シアター『マノン』全3キャスト(1)/全身全霊を込めたヴィシニョーワのマノン - 劇場文化のフィールドワーク。つまり、宗教は異なるが、沼地のマノンも、寺院崩壊後のニキヤの幻(霊)も、天を志向する(昇天)というベクトルは共通しており、さらに、『マノン』も牧版『ラ・バヤデール』も男女の二人が天で結ばれる予定調和的結末をともに拒否している。牧さんの解釈を受けて、ランチベリーがミンクス原曲では最後に鳴らされる輝くようなグロッケンシュピール(鉄琴)を削った。結果、ニキヤの〝被昇天〟にマノンの最期が音楽的に重なって聞こえたのだと思う。

*3:最後の米沢の在り方から、ニキヤの死後の第三幕における視点の問題を改めて考えさせられた。一場のソロルの部屋で、ニキヤの幻影が現れるのはいうまでもなく阿片を吸ったソロルが見る幻想。二場の影の王国も同様で、その場にソロル自身が登場しニキヤと絡むのもすべては幻覚によるもの。そして三場のソロルの部屋の場も同じ。最後の四場において、寺院の入り口でニキヤとガムザッティの争いが演じられるのは、ソロルの頭の中での出来事だろう。だが、寺院崩壊後の、ヴェールを頭上に掲げたニキヤの登場はどうか。このとき、プログラムのあらすじには、「重い傷を負ったソロルは・・・」とある。すると、この観音菩薩のようなニキヤは、死にゆくソロルがこころのなかで見た姿ということになる。牧さんはそのように演出したのだろう。だが、舞台を見ていて、死んだ二人の霊の道行きが〝客観的に〟演じられていると見做したい気持ちになった。事の顛末からいっても、ソロルの主観だけが見た光景とするには、あまりに説得的で納得できる結末だったから。