F/T12 『レヒニッツ(皆殺しの天使)』"Rechnitz (Der Würgeengel)"/音楽としての演劇/硬直した倫理の壁を打ち破る【追記アリ】

イェリネクの『レヒニッツ(皆殺しの天使)』を観た(11月9日/東京芸術劇場プレイハウス)。

作:エルフリーデ・イェリネク Elfriede Jelinek
演出:ヨッシ・ヴィーラー Jossi Wieler
舞台美術/音楽:アンヤ・ラベス Anja Rabes
音楽:ヴォルフガング・シウダ Wolfgang Siuda
照明デザイン:マックス・ケッラー Max Keller
ドラマトゥルク:ユリア・ロホテ Julia Lochte
出演:カトヤ・ビュルクレ Katja Bürkle, アンドレユング André Jung, ハンス・クレーマー Hans Kremer, スティヴェン・シャルフ Steven Scharf, ヒルデガルド・シュマール Hildegard Schmahl
製作:ミュンヘン・カンマーシュピーレ劇場 Münchner Kammerspiele
翻訳:林立騎 Tatsuki Hayashi
字幕:萩原ヴァレントヴィッツ健 Ken Hagiwara-Wallentowitz

 第二次世界大戦終結前夜、対独協力者だったオーストリアの伯爵夫妻の城で、約200人のユダヤ人が、「パーティーの余興」として虐殺された——。
 ノーベル賞作家、エルフリーデ・イェリネクは、この実話をもとに、一編の戯曲を著し、言語を絶する事態をどのように語りうるのかというパラドキシカルな問題に取り組んだ。(F/Tのサイトより)

戯曲に目を通すつもりが読み切れずに上演日がきた。読んでいる間、何度もパウル・ツェランの「死のフーガ」を連想。ユダヤ人虐殺の主題もそうだが、むしろ対位法で書かれた音楽のような言葉たちからの連想だ。もっともこれは詩ではなく散文だが。この感触は翻訳だからか。ドイツ語ではどうなのだろう。共にユダヤ人だが違いも大きい。たとえば、人殺しの主題を人殺しの言語で綴らざるをえなかったツェランの詩が、音楽のように気持ち好くドイツ人に暗唱され、詩人は違和感を覚えたこと。だが、直接的な当事者では(たぶん)ないイェリネクの場合、そうした倫理的問題は生じそうにない。というか、彼女はそもそも不謹慎との反応を起こす〝倫理〟自体に思考停止を嗅ぎつけている? 猥雑で不謹慎でユーモラスでなんでもありの散文には、そう思わせるところがある。
いずれにせよ、人殺しをめぐるモノローグは延々と続くが、初めと終わり近く、わずかにト書きらしきものもある。そこには「いつものことだが、まったく別のやり方をしてもいい」とも。材料は提供した、あとは好きにやってくれと。
登場人物は「使者(たち)」だけ。プレトーク(ユリア・ロホテ)によれば、〝古典的〟な使者。ギリシア悲劇では殺人などの場面はすべて舞台の外で起きる。その出来事を報告するのが使者の役目だ。人殺しの現場(危機)について報告する使者。ただし、本作の使者は、レヒニッツの村で起きた一夜の殺戮現場に居合わせたとの設定ではない(だろう)。実際、この出来事を報告(証言)しようとした当事者はすべて抹殺されたという(プレトーク)。かといって、作家の想像力で見た来たように語らせることもしない。「出来事の再現ではない」(プレトーク)。表象/再現の不可能性? その認識はこの作家にとっては自明だ。イェリネクはこの歴史的殺戮に照準を定めてはいるが、その的に近寄ったり離れたり迂回したりしながら、不謹慎を恐れずにあらんかぎりの言説を紡いでみせる。
使者は一人でもよいとト書きはいうが、演出家のヴィーラーはこの厖大なモノローグを五人の使者に巧みに振り分け、語らせる。様々な動きや場面展開をつけて。発話はほぼ客席へ向けてなされるが、五人の在り方は対話的だ。
ものを食べながら喋る。ある時は宅配ピザを、あるいはゆで玉子を、あるいはフライドチキンを、最後にケーキを。
貴族然とした夜会服から下着姿へ、最後は使用人の服装。
狩(鹿狩り/人間狩り)のテーマを浮き上がらせるべく、ヴェーバーの《魔弾の射手》が様々にアレンジされて使われる。
役者たちの仕草はしばしば官能的で、退廃味たっぷり。ピナ・バウシュのダンサー達が客席に向かって挑発的に台詞を吐いている。そんな感じ。
台本では、終わり近くで「使者は全員退場し、舞台装置はすべて解体され」、その後「山中の狩猟小屋」で「乱れた夜会服を着た人々」が「互いに向き合い」対話する部分がある。音楽でいえばコーダか。アッチェランドして終結するような。だが、今回は舞台装置が解体されることも、続く小屋の場面も上演されなかった。なぜ? 猟奇的な要素が日本では憚られたのか。それとも四年前のミュンヘンでの初演でも同じだった? これだけでも、イェリネクの法外な面白さ、演出家やカンマーシュピーレ劇場の役者の質の高さは十分わかる。だが、コーダの部分は見てみたかった。やはりあれで終わりでは少々物足りない。【追記 F/Tのサイトには初演時の劇評の断片が訳されており、そこに「100ページにわたる壮大なテクストで、140分もの間観客を魅了する」の文言がある。今回の上演時間は110分だった。やはり終結部(30分)がカットされていたのだ。】
今回の公演で、自分がこれまで音楽を聴くように演劇を観てきたことを再確認した。まさに音楽のような演劇作品だったから。ただし、言葉の洪水(響き)を耳で聴きながら〝意味〟を字幕で見る(読む)といういびつな体験だが。日本語でこうした演劇/音楽体験をしてみたい。
今回は一階席しか使用されず、幸いほぼ中央辺りに座れたため、二階席で見た『エッグ』のような間遠な感覚はなかった。