新国立劇場バレエ『シルヴィア』/驚嘆すべき米沢唯/相手を誠実に受けとめる菅野英男/安定した佐久間・チー組/貧弱な販売プログラム

バレエ『シルヴィア』の3キャストすべてを観た(10月27日/11月2日/3日)。

11月2日
家庭教師/シルヴィア:佐久間奈緒 召使い/アミンタ:ツァオ・チー 伯爵/オライオン:厚地康雄 庭師/エロス:福田圭吾 伯爵夫人/ダイアナ:本島美和 ゴグ:野崎哲也 マゴグ:江本拓 ネプチューン:加藤朋子 マーズ:竹田仁美 アポロ:井倉真未 ジュピター:大和雅美

佐久間とチーはさすがに踊り慣れた演目。確実な演技で安定感がある。佐久間の踊りは快活。つねに全力で踊り、愛らしさを失わない。とても勤勉なダンサーだと思う。第1幕 第2場の後半でオライオンがシルヴィアを誘拐する際、盲人となったアミンタ/召使いの動きをチーは実にリアルに演じた。プロローグから第2幕まで、チーのアミンタ/召使い造形は暗く閉ざされた印象だが、第3幕で盲目が癒されると暗さを払拭しイメージを一変(心からの晴れやかさとはいえないが)。グラン・パ・ド・ドゥでのリフトは、決め方にこだわりが感じられた。それを実現するだけの技術と筋力。ヴァリエーションでは跳躍や腕の動き等に自信が漲る。厚地の伯爵/オライオンは古巣の両プリンシパルを相手によく健闘した。伯爵は固より似合いの役だが、キャラに反するオライオンでも第2幕のシルヴィアとの絡みで野性味を出した。福田のエロスは、踊りはよいが、舞台と客席を媒介する狂言回しとしてはいまひとつ。伯爵夫人/ダイアナ役の本島美和は上背があり華やかさを感じた。適材適所の配役はかつての違和感をかなり軽減した。

11月3日
家庭教師/シルヴィア:米沢唯 召使い/アミンタ:菅野英男 伯爵/オライオン:マイレン・トレウバエフ 庭師/エロス:八幡顕光 伯爵夫人/ダイアナ:堀口純 ゴグ:野崎哲也 マゴグ:江本拓 ネプチューン:加藤朋子 マーズ:竹田仁美 アポロ:井倉真未 ジュピター:大和雅美

米沢唯はプロローグと第1幕では踊りが若干〝ゆるい〟印象を受けた(が、終幕までを見据えた〝加減〟であることが後に判明)。その脱力したような水浴の踊りから、瑞々しさが感じられた。菅野はノーブルで善良な召使い。八幡の庭師/エロスは、吉本泰久同様、客席への働きかけに才がある。ただし後者に感じる舞台や観客への慈愛はこれからか。ダイアナの堀口純は意思がよく見える演技と踊りで健闘。ただ、役柄としては配下を使う〝無慈悲さ〟がほしい(本島にはそれがあった)。
トレウバエフのオライオンはさすがにきっちり踊るが、第2幕でのシルヴィアとの絡みではもっと荒々しさがほしい(床をたたく動きなど)。第2幕での米沢=シルヴィアには驚嘆した。囚われのわが身を嘆いた後、オライオンの誘惑に抗いながら、奴隷のゴグ(野崎哲也)とマゴグ(江本拓)に葡萄酒を作らせ、オライオンに飲ませて泥酔させる。それでも洞窟から抜け出せず絶望するなか、エロスに導かれたアミンタ(菅野は目隠しして歩くだけでgoodnessが舞台を蔽う)が助けに来るも、自らの境遇を恥じ逃げ出してしまう。この間、ドラマの流れに必要な緩急や強弱を踊りによって見事に演じ分けた。とんでもない才能。ここはかなり激しい踊りなのだが、せかせかした感じは一切ない。それどころか、ある意味、静かなのだ。米沢が踊ると、その時間に奥行きを感じる。これはいったい何だろう。ピッコロをフィーチャーしたゴグとマゴグの踊りは愉快な動きで楽しめるが、初日の二人(八幡と福田)に比べ、十全とはいえない。
第3幕でシルヴィアとアミンタが邂逅した後、米沢=シルヴィアは菅野=アミンタの肩に上体を軽く預ける。それだけでグッときた。グラン・パ・ド・ドゥは二人の気持ちが通い合い、幸福感が湧出した。ピチカートのヴァリエーションには、完全に脱帽。とても静かできめ細かい。この静けさは時間の細分化から生じるのかも知れない。その一方で、シークエンス全体を見渡したうえで、その時その場の最適な動きを実現する。フィニッシュへ向かい、米沢の身体はアッチェランドしていく音楽と見事に同期した。緩急や動と静を踊りの中に自在に作り出す。驚くべきダンサーだ(ヴァリエーションの後半で右後方から子供のぐずる声がしたが、例の静けさは破られなかった)。菅野のソロではノーブルな精神性を造形しようとする意思が感じられた。完全ではないが、気持ちが入った誠実な踊り。八幡による海賊の一本足踊りは、帽子を気にしたのか少し不安定だった。
ダイアナがオライオンを騎馬で突き殺した後、傘を差した庭師/エロスが白のスーツ姿で懐からシャンパングラスを取り出し、ダイアナへ渡す。ここから、フィクション(神話の世界)がリアル(現代=これもフィクションだが)へ転換しはじめる。伯爵家の玄関が上から降りてきて、伯爵が現れ、伯爵夫人(ダイアナ)に跪く。ビントレーが大好きだという《フィガロの結婚》のエンディングを取り入れたらしい。アルマヴィーヴァ伯爵は、「伯爵夫人よ、どうか許しておくれ」(Contessa perdono!)とアンダンテで懇願する。一方、わがグイッチオーリ伯爵が結婚記念日の仮装パーティを終えて膝をつくのは、エロスが現出させたファンタジー(フィクション)による愛のレッスンを見せられたからだろう。ところで、召使い/アミンタだけはリアル(現代)のままでフィクションの中にワープし、神話の世界へ入りこむ。つまり、神々でも妖精でもなく〝死すべき人間〟の身で虚構の位相を越境した。彼が盲目にされたのはそのためだ。
喝采を受けながら、米沢唯がカーテンコールで深々とお辞儀をする。いつものように、実にこころのこもったレヴェランスだ。きっと「黒い帽子に黒いコートで、頷きながら拍手する」一番後ろのあの人にお礼を言っているのだろう。米沢唯の踊りは誰にも似ていない。文字どおり〝唯〟一無二の舞踊である。
音楽は回を追う毎に好くなったとはいえる。今回、東京フィルハーモニー交響楽団金管群が健闘した。ただし、繰り返すが弦はいまひとつだった。三浦氏(Vn.)も黒川氏(Vc.)もあんなものではなかったはず。指揮者は弦や木管からもっとドリーブに見合った優美な音色が引き出せたのではないか。
販売プログラムに不正確な翻訳や記述が散見された。たとえば、ビントレーが引用する批評文の 'pastoral' を「田園的な・・・」と訳している。意味は分かるが、原文の引用符が示すように、これは正確には形容詞ではなく、文学芸術のジャンル(形式)を表す普通名詞で「牧歌」と訳すのが通例だ。また、別の箇所だが、シルヴィア(Sylvia)という名の由来は、ラテン語silva(森)からで、sylvan(形容詞=森の、森に住む/名詞=森の精)や、バレエでお馴染みのシルフ(sylph)およびシルフィード(sylphide)も同様だ。だが、なにより国立の劇場が販売するプログラムとしては、もっと詳しい、より専門的な論文を掲載してもよいのではないか。
(10月27日については新国立劇場バレエ『シルヴィア』初日/はからずも小野の非凡さが/音楽(指揮者)は物足りない - 劇場文化のフィールドワーク