アリベルト・ライマンのオペラ《リア》日本初演/オール日本人キャスト・スタッフによる質の高い上演【追記】

《リア》の最終日を観た(11月10日 14時/日生劇場)。

日生劇場開場50周年記念 特別公演
二期会創立60周年記念公演/読売日本交響楽団創立50周年記念事業
オペラ《リア》<日本初演> 全2部 原語ドイツ語上演(日本語字幕付)


原作:ウィリアム・シェイクスピアリア王
台本:クラウス・H・ヘンネベルク
作曲:アリベルト・ライマン
指揮:下野竜也
演出:栗山民也
管弦楽読売日本交響楽団


【キャスト 】
リア:小森輝彦(11/8・10)小鉄和広(11/9)
ゴネリル:小山由美 (11/8・10)板波 利加(11/9)
リーガン:腰越満美(11/8・10)林 正子(11/9)
コーディリア:臼木あい(11/8・10) 日比野 幸(11/9)
フランス王 :小田川哲也(11/8・10)近藤 圭(11/9)
オルバニー公爵:宮本益光(11/8・10)与那城 敬(11/9)
コーンウォール公爵:高橋 淳(11/8・10) 高田正人(11/9)
ケント伯爵 :大間知 覚 (11/8・10)小林大作(11/9)
グロスター伯爵:峰 茂樹(11/8・10)大久保光哉(11/9)
エドマンド :小原啓楼(11/8・10)大澤一彰(11/9)
エドガー:藤木大地[全日]
道化:三枝宏次[全日]
助演:寺内淳志 野坂 弘 長谷川直紀 頼田昂治
合唱:二期会合唱団
カヴァー・キャスト(エドガー):村松稔之


【スタッフ】
美術:松井るみ 照明:服部 基 衣裳:前田文子 ドラマトゥルク:長木誠司
演出助手:上原真希 舞台監督:大澤 裕
主催:日生劇場[公益財団法人ニッセイ文化振興財団]/公益財団法人読売日本交響楽団/公益財団法人東京二期会
協力:東京ドイツ文化センター 後援:ドイツ連邦共和国大使館 協賛:日本生命保険相互会社


平成25年度文化庁芸術振興費補助金(トップレベルの舞台芸術創造事業)
平成25年度(第68回)文化庁芸術祭参加公演

日生劇場は音響があまりよくない(今回の座席は2階後方の左寄り)。それでもオケの荒々しい響きと歌手の苛烈な歌唱や絶叫が、荒涼としたリアの世界を見事に現出させた。弦バスが弓の棒の部分で弦をたたく奏法(コル・レーニョ・バットゥートと呼ぶらしい)が効果的。そんな殺伐とした色合いが支配的ななか、乞食に変装したエドガーがカウンター・テナーで無伴奏のヴォカリーズをひっそり歌うところや、〝狂人〟と化したリアが盲いたグロースターと邂逅し後者の名を告げる場面、リアがコーディリアの死体を引き摺りながら登場する幕切れなどは、いっそう胸に沁みた。
リア王』のオペラ化は、ヴェルディですら何度も試みて果たせなかったらしいが、本作はかなりよく出来ている。メインプロットとサブプロットの扱いや二つの場面が交錯する箇所なども巧みに作品(舞台)化されていた。
舞台の中央に台形(四辺形?)の演技場がマウンドのように小高く設置され、ドーバーの断崖を想わせる灰白色のシートがすっぽり被せられ、手前の下手寄りに先の尖った柱のような杭が刺さり、その奥には切穴がある。演技場は、奥から手前に、下手から上手に、それぞれ傾斜している。その手前下の、客席と同レベルにオケの弦楽器群とハープが陣取り、上手には金管が、下手には木管とパーカッションが、それぞれ階段状に配置されている。弦楽器や指揮者の位置は、1階の客席最前列とは目と鼻の先。出演者は、演技場の左右二辺にぞれぞれ二つずつ設けられた階段と、演技台の奥から出入りする。
栗山民也の演出は、舞台セットと同様、一定の節度を保った比較的シンプルなもの。要所では紅白の布や照明等で効果的な工夫を凝らすが、総じてさほど解釈上の自己主張はせず、あくまでも音楽とプロットそのものに語らせる。日本的な様式美のようなものも感じた。
第2部・第1場。コーンウォールがグロースターの片目を「力ずくで押し出し」た後、リーガンが「もうひとつの眼も押しつぶす」シーンは印象的。リーガン役の腰越満美は、その際、グロースターが息子(庶子エドマンドの忘恩を見抜けない盲目性や愚かさを侮蔑し、高々と笑う。だが、その痙攣的な嘲笑が、次第に泣き声のような音に変わるのだ。残忍な行為の途上で冷徹にも哄笑しうる自分に思わず愕然とするリーガン。類型的な〝悪人〟ではない、生身の人間がそこに居た。
第2部・第7場の先に触れたラストシーンで、リアは死んだコーディリアを引き摺りながら「これが見えるか? 見ろ、この顔を、この唇を、見ろ、これを見ろ」と最後の台詞を吐く。これは、従来、リアは最愛の娘が息を吹き返したと信じて歓喜のうちに死んだとするか、あるいは、コーディリアの口から魂が外に出て天に昇っていくのを(中世の宗教画にあるように)死を前にしたリアは目の当たりにし、ふたりは最後の挨拶を交わして死んでいったとするか、いずれかの解釈が主流だった(と思う)。どちらもリアの悲劇に救いを見出す点で共通している(リアの最後の台詞がただ絶叫のみとなっている版もあるようだが、ライマンの選んだ独訳は上記の通り)。だが、リアに扮した小森輝彦は、コーディリアを引き摺ったまま、娘の方を見ないで、絶叫することもなく、絶望の果てにただ力なくこの台詞を呟いていた。まるで、「そんな奇跡のようなことは、もういまの時代にはけっして起こらないのだ」。そう言っているようにも聞こえた。この世界に〝救い〟は存在しないということか。
しかし、〝救い〟のない世界を見事に表象した音楽芸術から、われわれ観客/聴衆は、救いとはいえないまでも、喜びや慰めが得られるのだから不思議だ。終演後、劇場の階段を降りながら、皆、充実した、嬉しそうな表情をしていた。
小森輝彦は、幸四郎を想わせる近代的でノーブルなリアを造形。もっと老齢の醜さを出してもよいが、素晴らしい出来。ゴネリルの小山由美は充実した歌唱で、新国立版《サロメ》のヘロディアスを思い出した。リーガンの腰越満美は芝居がうまい。本来はコーディリア役だろうが〝悪役〟の歌唱も悪くない。コーディリアの臼木あいは「プーランクの夕べ」でも聴いたが、声が弱い。演技も含め、もっと艶がほしいところ。コーンウォール公爵の高橋淳は久しぶりに聴いたが、よく通る歌声は健在だった。ケント伯爵の大間知覚は歌唱はよいが、役の個性があまり明確ではなかった。グロスター伯爵の峰茂樹も好演したが、庶子に騙され嫡子の〝誠実〟を見抜けない愚かさがもっと出るとよい。エドマンドの小原啓楼も歌唱はともかく、色悪のギラギラ感がほしい。エドガーの藤木大地は前述のとおりヴォカリーズの部分はよかった。道化役の三枝宏次はフールらしい身のこなしが素晴らしく語りもよい。唯一歌わない道化の存在は、他の登場人物が織りなす世界を相対化する効果があった。
指揮の下野竜也読売日本交響楽団は、オペラ向きとはとてもいえない音響のホールで、健闘したと思う。ただ、総じて弱音の部分はもっと繊細さがほしい。【追記 上述のとおり、管楽器群を小高い演技台の両サイドに配置した結果、歌手の歌声がブラスの咆哮にかき消されることはほとんどなかった。音量のバランスに充分配慮した、巧みな配列だったと思う。】
歌手もスタッフもすべて日本人だけでこれだけ質の高い舞台を作り上げたのは大したものだ。音楽学者・批評家の長木誠司がドラマトゥルクで入ったことも公演を成功させた要因のひとつだろう。販売プログラム(1000円)も充実していた。ただ、字幕の、特に道化の台詞等で、すぐに意味が飲み込みにくい箇所が散見された。もともと道化の台詞はただでさえ翻訳が難しいうえに、制約の多い字幕となると至難の業であることは承知しているのだが。
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公演の六日前「ライマン・プロジェクト」と称する、ライマンを囲むシンポジウムとミニコンサートがあった(11月4日 19:30/東京ドイツ文化センター)。作曲家の細川俊夫や、ライマンの楽譜を出版しているショット・ミュージック(Schott)の社長夫妻も臨席(細川氏の楽譜もショットから出ている)。シンポジウムというより、長木誠司がライマンに質問するかたち(通訳:蔵原順子)。いろいろと興味深い話が聞けた。『リア王』のオペラ化をライマンに依頼したフィッシャー=ディースカウは、実はブリテンにも同様の打診をしていたが、《ベニスに死す》の創作に手一杯で断られたとか。音楽(作曲)は、むしろそうと意識していないときに育つものだとか。ライマンが歌曲のテクストに選んだパウル・ツェランについては、明治大学の関口裕昭が簡単に解説。資料として当該詩集の関口氏による解説と対訳、長木氏の「パウル・ツェランと音楽1」(『みすず』426/1996年9月)等のコピーが配布されていた。ライマンがツェランに会ったときの話も貴重だった。
後半のコンサートで、ライマンがパウル・ツェランの詩に音楽をつけた歌曲集《時の屋敷》(‶Zeitgehöft")の5曲を聴いた。今回エドガー役のカヴァーを務めた村松稔之のカウンターテナーテノール)と長年ライマン氏のアシスタントをつとめたアクセル・バウニのピアノ。素晴らしい歌唱および演奏、素晴らしい歌曲。村松氏はまだ芸大の大学院生らしいが、彼のエドガーも見て/聴いてみたかった。
最後に、今年の10月に初演されたライマンの最新作『第九へのプロローグ』について、まず作曲家本人が経緯を話し、その録音を聴いた。これは、ウィーンコンツェルトハウスの創立100周年記念に委嘱された作品。100年前のオープニングではリヒャルト・シュトラウスの「祝典前奏曲」が初演された。だが、ライマンは、あれから二つの大戦を経たいま、もはや〝祝典〟の音楽は創れないという。ベートーヴェンが第九を作曲する際、シラーの詩の第二版を使ったが、初版にはあった箇所がカットされていた。そのカットされた詩行こそライマンにとっては重要で、それをテクストに『第九へのプロローグ』は作曲された。演奏は、グスターボ・ドゥダメル指揮のウィーン・フィル。始めはコーラスのみであとから弦楽器が加わり、そのあとベートーヴェン交響曲第9番が演奏されたらしい。当日配布されたシラーの詩の対訳のうち、日本語訳のみ掲げる(訳者の記載はない)。

欺瞞の徒には没落を!
暴君の鎖からの救済を!
友にも敵にも真実を、
罪なく泣く者に救いの手を、
死の床にある者に希望を。
全ての罪人は許されんことを、
そして地獄はもはやあらず。
死者たちもまた生きんことを!

ツェランへの傾倒といい、この詩の選定といい、もっとアリベルト・ライマンの音楽を聴きたくなった。