新国立劇場バレエ『マノン』2日目/ゲスト組 文化のグローバル化?

昨日『マノン』の2日目を観た(6月24日)。
マノン=サラ・ウェッブ/デ・グリュー=コナー・ウォルシュ/レスコー=古川和則

アメリカからのゲストダンサーは二人ともしっかりと充実した踊り。サラ・ウェッブのマノンは踊り・演技ともさすがにこなれていた。若いコナー・ウォルシュは抜群の身体能力で、一幕の挨拶のソロはアラベスクで雄弁に語っていた。勢い余って少しよろめいたが、問題ない。ただ、マクミラン的な様式性はあまり感じられない。どこまでも明るくスポーティ(ロイヤルスタイルをしっかり身につけたらアンソニー・ダウエルのようになる?)。
二幕の高級娼家でのウェッブのソロは、やや軽め。小野もそうだった。だが、ここの音楽に見合うには、〝悪所〟の作法に馴染んだ年増女のような重みが欲しい(九年前、酒井はなのソロは「花魁道中」に見えた。この場のマノンの役作りが日本の身体を通してそう見えさせたのだろう)。
ソロに続く連続リフトでは受け手の男性ダンサーたちがあまりにぎこちなく、見ていてウェッブに申し訳ない気持ちになった(日本にサポートのうまい男性ダンサーが極端に少ないのは、常々、この国の男どもの成熟度の低さと比例しているように感じ、忸怩たる思い)。
看守の厚地康雄はさすがにバーミンガムで鍛えただけのことはある。三幕での厚地と二人のゲストの絡みではドラマがしっかり立ち上がった。三幕冒頭の流刑地の場で、髪を短く切られた娼婦たちが頭を抱えて嘆く踊りはいつも心に沁みるが、今回はなにも感じない。これはどう考えてもダンサーではなく、演出・指導に原因があるように思われる。
沼地のパ・ド・ドゥは素晴らしかった(昨日のジャンプは、フィギュアスケートではないが、回転数が足りないように見えた)。
古川和則のレスコーは、踊りはともかく、存在の「重さ」はあった。むろん、これも体重の話ではない。例えば、昨日の福岡は以前より太めに見えた(怪我の後で仕方ない)が、この「重さ」があったとはいえない。ただし、古川、厚地、菅野を含め、新国立の男性ダンサーがみな「悪」の造形が弱いのは、カンパニーのあり方に構造的な原因があるかも知れない。
この日は二人の白人ゲストが中央を踊ることで、たしかにドラマは立ち上がった。パ・ド・ドゥはいずれもすばらしかったし、沼地のそれでは、感涙を誘う質を有していた。だが、頽廃的な感触はなく、二人の文化的出自を思わずにはいられなかった。どこまでも明るくスポーティで、アメリカンな『マノン』という印象。
今回の演出陣を見ると、九年前のモニカ・パーカーがカール・バーネットと入れ替わっている。音楽・美術・衣装だけでなく、演出の方向性も、猥雑なものを含む濃厚な味付けから、あっさりとした明朗さへとシフトしているように思われた。これは、ケネス・マクミラン(1929-92)が没後20年経過し、文化のグローバル化がいっそう進んだ結果なのだろうか。
二回観た印象は、本来の(?)『マノン』が指し示す作品世界からすると、音楽・美術・衣装を含め、全体的に清潔で消毒が効き過ぎているように感じた。
舞台監督への要望。カーテンコールでは主役の二人に一人ずつ拍手が送れるよう、ぜひone by oneでお願いしたい。[追記]指揮者のマーティン・イエイツにも単独で。