新国立劇場バレエ『マノン』初日 成熟/退廃の不在

昨夕、新国立劇場バレエの『マノン』初日を観た。
マノン=小野絢子/デ・グリュー=福岡雄大/レスコー=菅野英男
演出=カール・バーネット、パトリシア・ルアンヌ
指揮・編曲=マーティン・イエイツ/東京フィルハーモニー交響楽団

特筆すべきは音楽の素晴らしさ。すべては、新たに編曲し直したマーティン・イエイツの指揮に帰する。レイトン・ルーカスによるオリジナル編曲と比べ、贅肉が落とされ、すっきり響く。加えてイエイツの丁寧な音楽作りで、気品のある美しい音色が生まれていた。特にチェロのソロ(金木博幸)が印象的。ただし、今回採用されたピーター・ファーマーの舞台美術・衣装も、以前のニコラス・ジョージアディスの猥雑なテイストとは異なり、すっきりきれい。そのため、新編曲の洗練と相乗し、旧ヴァージョンを聞き/見慣れている者には少し物足りないかも知れない。
踊りの方は、全体的に九年前新国立で初演した時よりダンサーたちが幼く小振りに見える。前回の主要な役には酒井はな(マノン)と小嶋直也(レスコー)を除きゲストを招いた点を割り引いても、その感が強い。
大作の初役に挑んだ小野絢子と福岡雄大は、マクミランの難しい振付をじつによく踊ったと思う。四つのパ・ド・ドゥを見れば(沼地のパ・ド・ドゥを除き)ふたりの技術の高さがよく分かる。だが、あえていえば〝簡単に〟踊りすぎ。もっと高い抵抗値のようなものが欲しい。音楽がいくら悲劇的な予兆を響かせても、舞台上にその客観的相関物は不在だった。動きやかたちが調ってもそれらを支えるべき本体(存在)が希薄では、振付家の考えた作品世界は現出しない。
菅野と福岡は入れ替えた方がよくないか。福岡はもっと神学生としての人物造形に腐心すべきだ。たとえば一幕の出会いの場等は、どうかするとちんぴらのナンパに見えてしまう。トレウバエフのGMはもっと脂ぎったいやらしさが欲しい。九年前同様、看守を演った山本隆之は、若い初役のダンサーたちに合わせてしまった感がある。カレーニンをあれだけ濃密に踊った山本ならもっと出来るはず。総じてみな健康的でスポーティで明るすぎる。作品の持つ十八世紀フランスの退廃がまったく感じられない。摂政時代、すなわち「風紀の紊乱、好色な貴婦人たち、悪人ぶることをよしとした宮廷貴族の時代」(プログラム)を背景とする作品世界の空気を体現していたのは、湯川麻美子(レスコーの愛人)と厚木三杏(高級娼婦)ぐらいではなかったか(かつての相方西山裕子の不在は大きい)。前にも書いたが、米沢唯にもマノンを踊らせたかった。演じるのではなく、役をその場で生きる米沢が、マノンを舞台でどう生きるかぜひ見てみたい。
成熟の不在。成熟がなければ退廃もない。これらはすべて、いまの日本の社会に生きるわれわれ自身の姿なのか。それとも、今回の演出者が到達点を下げた結果なのか。九年前の初演時、ダンサーたちは「そもそも娼婦というものは・・・」(西山裕子)といった基礎的な役作りからはじめていた。今回は、みな腹が出来ていない。かたちや動きはまずまず器用にこなしているが、中身がない。
あるいは主役が初役で『マノン』世界とは無縁の東洋人の所為なのか。今日は〝白人の〟ゲスト組が踊る。主役が変われば、全体の印象も変わるのだろうか。これから確かめたい。