新国立劇場バレエ『ドン・キホーテ』全4キャスト/感慨深い公演/熱と温もりと送別


金曜日(7月5日)は新日本フィルの定演だった。錦糸町のトリフォニーホールへ出かけるついでに、会期があと三日に迫った『夏目漱石の美術世界展』目当てに上野へ立ち寄った。会場の東京藝大美術館はかなりの混みよう。蒸し暑いうえにあの人混みでは、絵に付された説明文や漱石作品の引用文などとても読んではいられない。もっと早く来るべきだった。とにかくざっと見て回り、あとで図録をじっくり読むことにした。地下二階の展示も大方見終わったころ、バレエダンサーのYちゃんにばったり遇った。同僚のBさんと見に来たらしい。Yちゃんと話すのはこれが三度目だ。じつはこの日、上野を歩きながら、なぜかYちゃんと会場で遭遇する図が一瞬頭をよぎっていた。むろんこれは予知ではない。おそらく『ドン・キ』についての感想を頭の外へ出しきっていなかった所為もあるだろう。ただ、漱石の美術展とこのバレリーナを我知らずリンクさせたことに気づき、そうした理解が裏づけられたようで、ちょっと嬉しかった。エレベーター近くで数分間、彼女の踊りについて立ち話をした。Yちゃんは丁寧にかつ礼儀正しく応答してくれた。そういえば、この日の夜は東京文化会館でロイヤルバレエの公演(『不思議の国のアリス』)があったはず。彼女たちはそのついでだったのか。いずれにせよ、『ドン・キ』のメモはやはり残しておかねばと思い直し、遅ればせながらアップすることにした。

音楽:レオン・ミンクス
振付:マリウス・プティパ/アレクサンドル・ゴルスキー
改訂振付:アレクセイ・ファジェーチェフ
台本:マリウス・プティパセルバンテスの小説『機知に富んだ郷士/騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』による)
美術:ヴャチェスラフ・オークネフ
照明:梶 孝三


指揮:アレクセイ・バクラン
管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団
児童バレエ:日本ジュニアバレヱ(指導:鈴木理奈)

ゲスト・コーチ:ナタリア・ホフマン(元オランダ国立バレエ)
舞台監督:大澤 裕

新国立劇場バレエ『ドン・キホーテ』を全4キャストで観た(6月22日・23日・29日・30日/新国立オペラ劇場)。
いろいろと感慨深かった。まずは、この劇場が海外ゲストを招聘せず自前で『ドン・キ』を上演したのはたぶん初めてだから。しかも初日はほぼ満席で終始大喝采。売り切れの2日目も大きな歓声が飛んだ。3日目・4日目の客席もよく埋まっていた。日本のバレエ文化、ひいては劇場文化の発展と成熟を望む一人として、とても喜ばしい光景だ。また、今回は奇しくもバレエ団の新旧交代を画する節目の舞台となった。

【6月22日(土)2:00p.m.】
キトリ: 米沢 唯
バジル: 福岡雄大
ドン・キホーテ: 山本隆之
サンチョ・パンサ: 吉本泰久
ガマーシュ: 古川和則
ロレンツォ: 輪島拓也
ジュアニッタ: 長田佳世
ピッキリア: 奥田花純
街の踊り子: 寺田亜沙子
エスパーダ: マイレン・トレウバエフ
メルセデス: 本島美和
カスタネットの踊り: 西川貴子
二人のジプシー: 八幡顕光、福田圭吾
森の女王: 厚木三杏
キューピッド: 竹田仁美
ボレロ: 湯川麻美子、厚地康雄
第1ヴァリエーション: 五月女 遥
第2ヴァリエーション: 堀口 純


初日の米沢唯(キトリ)と福岡雄大(バジル)は高い技術に裏付けられた思い切りのよい踊りで、じつに熱い舞台を作り上げた。
米沢は、かたちは必ずしも正統的とはいえないが、バクランのハイテンポをまったく苦にせず、むしろゆったり感すら漂わせながら踊り、きめる(ちなみにバクランがテンポを緩めなかったのは初日だけだった)。福岡のサポートは怪しい部分もあったが、米沢はものともしない。ドゥルシネアでもまったくそつがない。三幕のグランフェッテは赤い扇子でアクセントを入れながら前半はトリプルで、後半はダブルでしかも最後まで廻りきってフィニッシュ。誰よりもうまい。軌道がほとんどずれない。何という技術と度胸。だが、技術はもとより大切だが、それは目的ではなく手段に過ぎないことを誰よりも理解している。そう感じさせる舞台だった。ニーナ・アナニアシヴィリや酒井はなは〝戦車〟のような重量感あるフェッテだった。一方、米沢のフェッテはきれいで華やかだが、どこか静かなのだ。芝居も好い。ガマーシュ(古川和則)へのお座なりなあしらいには笑った。
福岡は伸び伸び踊り、スペイン的な鋭角のフォルムをビシビシきめまくる。死んだふりのシークエンスも、関西弁の演技で客席を沸かせた(この部分、従来あまり笑いが出なかったが、今回のバジルは四人とも笑いをとった。ゲスト・コーチのナタリア・ホフマンの功績?)。三幕のヴァリエーションではトゥール・ド・レンのマネージュ(? カレーニョがよくやっていた空を蹴り上げるやつ)で豪快に魅せた。福岡はノーブル系を離れると抜群の運動神経を発揮し、じつに生き生きと踊る。
カスタネットの踊りの西川貴子は〝演歌〟にならず気品を保ったまま大きな踊りで情感を出した。メルセデスの本島美和は華やかに思い切り踊る。森の女王の厚木三杏はアクシデントもあったが、美しいうえに舞台全体を祝福するような在り方が見て取れた。
山本隆之がドン・キホーテとは。じつに感慨深い。思い込みの強い、超俗の、現実離れしたキホーテ。風車の羽に引っかかり地面に叩きつけられるシーンでは悲劇性すら漂う。三幕ではキトリとバジルの踊りを上手の席からサンチョ・パンサ(吉本泰久)と共に見詰める。そのさまは、後輩たちの見事な演技を、大役を務め終えた二人の先輩がまるで死後の世界から見守っているようかのよう。下手の席に座る公爵夫人(西川貴子)の視線も慈愛に満ちている。グッときた。山本も西川もこの公演を最後に〝契約ダンサー〟から〝登録〟になるという(吉本は昨年から)。バレエ団の歴史が凝縮したような時間だった。

【6月23日(日)2:00p.m.】
キトリ: 小野絢子
バジル: 菅野英男
ドン・キホーテ: 古川和則
サンチョ・パンサ: 八幡顕光
ガマーシュ: 輪島拓也
ロレンツォ: マイレン・トレウバエフ
ジュアニッタ: 堀口 純
ピッキリア: 細田千晶
街の踊り子: 寺田亜沙子
エスパーダ: 福岡雄大
メルセデス: 湯川麻美子
カスタネットの踊り: 厚木三杏
二人のジプシー: 福田圭吾、高橋一輝
森の女王: 本島美和
キューピッド: 五月女 遥
ボレロ: 湯川麻美子、貝川鐵夫
第1ヴァリエーション: 奥田花純
第2ヴァリエーション: 長田佳世

二日目は小野絢子と菅野英男による温もりのある舞台。〝対話力の菅野〟を再確認した。菅野が登場するとその笑顔がステージ全体に波及し、すべてが肯定されたかのように温かみが生じる。アーティストたちと対話しながら舞台を作っていく菅野。特に回転技では身体がキレていた。小野は危うい部分も含め、終始、町娘のキャラのまま舞台に居た。菅野と組むと小野は新たな顔を見せる。菅野は(以前も書いたが)『こうもり』では小野の女らしさを、今回は、人間的な味わいを存分に引き出した。結果、その場で息をする小野がそこに居た。
福岡のエスパーダは街のあんちゃん風だが、色悪を気取ったノリノリの踊りと演技。何度も髪をなでつけるあたり、気に入った。五月女遙のキューピッドはクラシカルでありながら切れ目がなくとても滑らか。厚木三杏のカスタネットの踊りはロマの悲哀を感じさせる。
二日ともトレアドールはナイフが立たなすぎ。特に初日は四五本ナイフが倒れてしまい、客席の注意がそちらへ向かい、街の踊り子の寺田亜沙子が可哀想。これまでナイフ立てに失敗するのは精々一人か二人だった。リノリュームが変わった所為だとの話もあるが、あれではせっかくのフィクションが壊れてしまう。
カーテンコールでのカーテンを下ろすタイミングの拙さは相変わらずだ。もしやと思い、舞台監督の名前を見るとやっぱりだった。なんとかして欲しい。
バクランの熱い指揮は『ドン・キ』には合っている。ただ、東フィルのトランペットはタンギングの歯切れがよくない。

【6月29日(土)2:00p.m.】
キトリ: 川村真樹
バジル: 厚地康雄
ドン・キホーテ: 古川和則
サンチョ・パンサ: 八幡顕光
ガマーシュ: 輪島拓也
ロレンツォ: マイレン・トレウバエフ
ジュアニッタ: 堀口 純
ピッキリア: 細田千晶
街の踊り子: 米沢 唯
エスパーダ: 福岡雄大
メルセデス: 湯川麻美子
カスタネットの踊り: 厚木三杏
二人のジプシー: 福田圭吾、高橋一輝
森の女王: 本島美和
キューピッド: 五月女遥
ボレロ: 西川貴子、貝川鐵夫
第1ヴァリエーション: 奥田花純
第2ヴァリエーション: 長田佳世

三日目の川村真樹と厚地康雄の長身ペアはさすがにゴージャス。川村のラインの美しさはやはり本格的。彼女については昨年の『白鳥』で書いた(http://d.hatena.ne.jp/mousike/20120515/1337087553)。付け加えることはほとんどない。ただ今回は、最後の舞台(たぶん)とあって、ゆるいなりに最後まであきらめない気力が少しだけ見えた。三幕のアダージョでは、客席の貪欲さにも促され、何かが表出されていた。よかったと思う。だが、歓声の熱は、上演中もカーテンコール時も、初日と二日目には及ばなかった。観客はよく分かっている。もちろん二人のラスト公演(契約ダンサーとして)に相応しくカーテンコールではスタンディングする人たちも少なからず居たが。それにしても、もっと主役の機会が与えられていたら・・・。そう思うと同時に、もっとバレエに対する衝迫があれば・・・。そうも思う。だが、バレエよりも愛せる存在が見つかったのなら、それはそれで喜ばしいことだ。一回目の休憩時、いつも最前列でオペラやバレエを見るM氏に、「川村真樹はどうですか」と尋ねた。すると、二回目の休憩時に、「あんまり綺麗になっていたので、あなたから言われるまで川村真樹とは分からなかった」と真顔で返してきた。
厚地はこの公演で退団し、バーミンガムロイヤルへ戻るらしい。もっと見たかったが、日本でのバレエダンサーの待遇を考えれば、誰も引き留めることはできまい。彼の地での成功を祈りたい。
米沢唯の街の踊り子と福岡のエスパーダ。二人が組むと、なんというか潔い空気になる。見る側は変に感情同化しないで済むため、気持ちよく〝外〟から(当たり前だが)見ることができる感じ。
古川和則のドン・キホーテは、二日目同様、ボケ具合が半端ではない。何度も笑った。マイレン・トレウバエフのロレンツォは、二日目もこの日も、頭のてっぺんから足のつま先まで、全身がキャラと化している。しかもそのキャラは太い。いまのうちに他の日本人にも教えておいて欲しい。
二幕二場のジプシー(ロマ)たちの群舞はキレがいまひとつ。古川キホーテはボケすぎたのか、人形劇の舞台(幌馬車?)を解体しきれなかった。
グランフェッテでの手拍子にはあきれた。フェッテや難しい技の最中に拍手するのは、バレエを芸術としてではなく、曲芸もしくはスポーツの類いと見なしている証しだろう。それがおそらくバレエ関係者だと想像されるところに、この国のバレエ界の不幸がある。
カーテンコールで歓声に紛れてなぜかバクランにブーが出た。ブーイングされる謂われはないだろうに。

【6月30日(日)2:00p.m.】
キトリ: 寺田亜沙子
バジル: 奥村康祐
ドン・キホーテ: 山本隆之
サンチョ・パンサ: 吉本泰久
ガマーシュ: 古川和則
ロレンツォ: 輪島拓也
ジュアニッタ: 長田佳世
ピッキリア: 奥田花純
街の踊り子: 米沢 唯
エスパーダ: マイレン・トレウバエフ
メルセデス: 本島美和
カスタネットの踊り: 西川貴子
二人のジプシー: 八幡顕光、福田圭吾
森の女王: 厚木三杏
キューピッド: 竹田仁美
ボレロ: 堀岡美香、厚地康雄
第1ヴァリエーション: 五月女 遥
第2ヴァリエーション: 堀口 純

四日目は寺田亜沙子と奥村康祐。寺田は少しおっとり気味だが、マイムがとてもきれい。奥村は思い切りがよい。ただ、相手のバレリーナを生かすサポートや在り方を身につける必要あり。
米沢唯の街の踊り子は、トレウバエフのエスパーダに対すると、扇子の扱いが日本舞踊のように見えた。福岡がエスパーダのときは感じなかったのに。面白い。
吉本泰久のサンチョ・パンサはかわいいし生きている。一幕で山本キホーテがトランポリンでからかわれているサンチョを助けるシーン。ここでグッときたのは初めてだ。夢の場面の直前で悲劇性を感じたのは初日と同じだが、この日は〝老い〟について考えさせられた。ラストでみんなに見送られながらキホーテとサンチョが奥舞台から下手へ去っていく。山本隆之と吉本泰久の第二のバレエ人生に幸あれと祈らずにはいられない。
今回のキトリは、フェッテで米沢のトリプル以外みな前半でダブルを入れた。ザハロワなどはビデオ収録時以外はシングルで通すことが多かったことを思い出す。バジルのヴァリエーションも四人とも見応えがあった。『ドン・キ』は外連の好さが特徴だから、こうした挑戦はかなり効果的だったと思う。
『ドン・キ』はもっとも好きな演目のひとつ。なぜだろう。主役が王侯ではなく庶民だからか。踊りが多く、民衆の笑いと活力が存分に味わえるのも美点の一つだ。バフチンラブレー論を参考に、いずれゆっくり考えてみたい。