新国立劇場 演劇公演『温室』 「不安定さ」の感受自体が不安定

新国立小劇場でハロルド・ピンター『温室』の初日を観た(2012.6.26)。
演出:深津篤史/翻訳:喜志哲雄/美術:池田ともゆき/照明:小笠原純/音響:上田好生/衣装:半田悦子
対面式の観客席に挟まれたグレーの舞台には、赤に統一されたデスクやソファーが置かれ、その上部にも赤の拡声器が設置されたシンプルなセット。ただし、舞台の円形部分がドラマの進行とともにゆっくり時計回りに回転する(最後には逆回転も)。なるほど、「舞台と個々の観客との関係が刻々と変化します」(喜志哲雄)というのはこれだったのか(温室ブログサイト)。
「いわゆるピンター的な世界」をなぞることなく、一度バラバラにして新しいピンター作品を構築しようとした試みは充分評価できる。演出家は「平常と異常の境目を出したい」(深津篤史『日経新聞』2012.6.14)と語っている。あるいは「恐怖」「嫌悪」「憐憫」といった感情が生まれるかもしれないとも(プログラム)。
ルート扮する段田安則はじつに達者な俳優だ。ギブズの高橋一生もかなり質が高い。『エネミイ』(2010)ではこんな役者だったのかと眼を見張った。カッツ嬢を演じた小島聖は舞台上の姿がとてもきれい。彼女を見るのは『柔らかい服を着て』(2006)『アルゴス坂の白い家』(2007)以来だ。ロブ役の半海一晃はぞくっとするほどリアルな「本省のエリート」。〝びっこ〟の引き方もあまりにリアルで、とても演技とは思えなかった(カーテンコールではふつうに歩いていた)。舞台が回転しない幕切れの半海のロブと高橋のギブズのやりとりが私にはハイライトだった。
台詞回しのスタイルにばらつきを感じた。段田はいわゆるリアリズム(新劇)風でやや重め(もちろん『象』の大杉漣ほどひどくはない)。ラッシュの山中崇は小劇場のエネルギー発散型で少々感情過多。高橋は、上司ルートとの対話では、おべんちゃらの作り笑いに少し違和感を覚えたが、総じてドライな言い回し。小島は中間。こうしたでこぼこから、対話の音楽が成立しなかったのは少し残念。『象』のときも感じたが、役者の台詞回しは演出の意図に合わせてコントロールしてもよいのではないか。

翻訳者は、舞台の回転により「この劇の世界がいかにも不安定なものであることがよく分る」という(温室ブログサイト)。たしかに理屈ではそうなる。だが、そもそもピンターの芝居は「不安」や「不安定さ」が滲出するよう創られている。本に書き込まれた台詞や間を肉化する土台(舞台)が回転するため(その軋み音も手伝って)、当の「不安」や「不安定さ」の感受自体が不安定になり、結局、そうした感情が生じるのを阻害する結果となった。さらに、ピンターが多用する「間」の効果は、台詞や時間が一瞬宙づりになり、そこから不安や不気味さが生まれることがある。今回こうした効果がさほど感じられないのは、「間」の際も、ステージが流動することで、台詞や時間が止まったような印象を受け損ねるからだろう。結果、演劇体験自体が拡散し、少なくとも私は、ピンターが意図した不安や不気味さは感受できなかった。
ただ、演劇公演は〝成長〟するものだ。ばらつき感のある重めの台詞回しやリズム感(間)等は、回数を重ね、役者たちが舞台で生きる時間が増えれば、それなりに変化するかも知れない。楽日に近い後半に再度観る予定だが、そのころには、リズムのある、言葉の音楽が聴けるかも知れない。