新国立劇場 演劇『どん底』2019/喜びは伝わったが

ゴーリキーの『どん底』を観た(10月18日 18:30/新国立小劇場)。楽日の三日前となったのは、12日(土)13:00の公演が台風19号の影響で中止となり、振り替えたため。

最後に『どん底』を見たのはもうずいぶん前だ。演出は千田是也(1904-94)、場所は砂防会館だったと思う。調べてみると1980年。他にも見たかも知れないがどうもはっきりしない。

どん底』(1902)全4幕/作:マクシム・ゴーリキー(1868-1936)/翻訳:安達紀子/演出:五戸真理枝/美術:池田ともゆき/照明:坂口美和/音楽監修:国広和毅/音響:中嶋直勝/衣裳:西原梨恵/ヘアメイク:川端富生/アクション:渥美 博/演出助手:橋本佳奈/舞台監督:有馬則純

 例によって時間が経過し細部の記憶は怪しいが、走り書きを頼りにメモする。

ルカ:立川三貴

サーチン:廣田高志

ヴァシリーサ:高橋紀恵

ナターシャ:瀧内公美

クヴァシュナ:泉関奈津子

俳優:堀 文明

ブブノフ:小豆畑雅一

メドヴェージェフ:原金太郎

コスティリョフ:山野史人

クレーシィ:伊原 農

アンナ:鈴木亜希子

男爵:谷山知宏

ペーペル:釆澤靖起

ゾブ:長本批呂士

ナスチャ:クリスタル真希

プロンプター 他:今井 聡

アルリョーシュカ:永田 涼

ダッタン人:福本鴻介

 セットは高速道路か新幹線の高架下。この工事現場に役者仲間が久し振りに集い『どん底』を演じるという趣向。プロンプターもいる。つまり劇中劇だ。第2幕の後半からそのフレームが外れた(というか観客に忘れられた)頃、その幕切れで、ヘルメットを被った工事作業員[高速道路職員らしい](プロンプター役の今井聡)が高架の上部から梯子をゆっくり降りてくる。すると、みな慌てて立ち去り幕。ブレヒト的異化効果? 15分の休憩後、立ち入り禁止の看板が立つ第3幕がスタート。次第に客席側も演技場に。3幕から4幕へのトランジションでは全員でセットを組む。…

第2幕でアンナ(鈴木亜希子)が死んだとき、彼女はベッドから離れ、ハケた役者としてそばで他の演技を見守る。夫クレーシィ(伊原農)が死の床の方へ来ると、アンナ役はゆっくり夫に近づきじっと彼を見る。この間、照明がななめ上から彼女を捉える。まるで死者の霊(妻)が生者(夫)を見つめているかのよう。

木賃宿の亭主コスティリョフ(山野史人)の妻であるヴァシリーサ(高橋紀恵)とペーペル(釆澤靖起)の不倫関係。さらにヴァシリーサの妹ナターシャ(瀧内公美)とペーペルの関係。ペーペルによる亭主殺害…。

様々な人間模様が展開されるが、幕切れで、ハケた役者が次々にサイドの金網ぎわに座り、仲間の芝居を見ている。最後の酒盛りでは演じ終えた役者を含め全員参加する。俳優(堀文明)が首を括ったことを男爵(谷山知宏)が告げる少し前(俳優役はすでにハケて酒盛りに参加)、観客席のカミテ出入り口から警官(今井)が登場。高架下で演じている役者たちの方へ不思議そうに近づき、ハケて見ていたメドヴェージェフ役(原金太郎)が事情を説明する風(互いに警官だ)。芝居はとりあえず最後までやりきり、みなあっという間に解散する。ひとり残った警官はサーチンが壁に描いた「人間」の文字を小声で呟き、肩に付いた無線で報告し…幕。

幕切れについて補足すると、第4幕で、不在のルカから影響を受けたサーチン(廣田高志)がルカ張りの演説をぶる。が、その悦に入ったスピーチをあざ笑うように俳優が首を括った知らせが入る。ルカの言葉に希望を抱いた俳優の死(絶望)。この幕切れは結構苦いが、その苦さ(筆名のゴーリキーは「苦い」の意らしい)は最後の警官の呟き(ニンゲン)等により、かなり弱められた。苦さよりも人間賛歌の趣き。

役者は好かった。宿の亭主コスティリョフ役の山野史人(『ゴドーを待ちながら』は素晴らしかった)、ルカ役の立川三貴はさすがの演技(チェーホフ/中村雄二郎の『プラトーノフ』はいまでも覚えている)。ナスチャのクリスタル真希は研修所の試演会でよく見たが、今回は久し振り。役にぴったりで笑った。ヴァシリーサの高橋は『アンチゴーヌ』では脇を強烈に固めていたが、ここではまた違った魅力を発揮。ペーペルの釆澤は『ナシャ・クラサ』で初めて見た。こういうヴァイオレントな役も出来るのか(さすがに文学座はよい役者を排出している)。他にも歌の巧い役者等々。

設定はとても面白い。工事現場で芝居をする役者たちは実に楽しそう。演劇(すること)の喜びはよく伝わってきた。

一方で、芝居の中身と設定(フレーム)との関係がいまひとつ判然としない。たしかに劇中にもアル中で落ちぶれた俳優が登場する。が、現代の役者一般を「どん底」生活者と見做すのはやはり無理がある(生活が楽ではないとしても、いまや〝河原乞食〟の時代ではない)。 劇の虚構性を破る作業員[高速道路職員](第2幕の終り)や警官(第4幕の終り)については、劇中のダッタン人やゾブが荷担ぎ人夫で、メドヴェージェフは警官だから、似た境遇とはいえる。

だが、社会的格差がかつてないほど広がったいま、役者や警官や作業員よりも「どん底」生活を強いられている者が外国人労働者(ダッタン人のような)を含め、もっと他にいるだろう。後味が釈然としないゆえんである。

翻訳者の作品解釈が載っていた。要するに、「現代を生きる私たちもそれぞれ形を変えた「どん底」を背負って」おり、「「どん底」と共生することこそが生きることであり、それこそが真実なのだ」と(プログラム)。

今回の舞台も同じラインから、普遍化/一般化した「どん底」のありようを描こうとしたのだろうか。

 プログラムには岸田國士(1890-1954)の「『どん底』の演出」と題する短文も掲載されていた。岸田は1954年の文学座公演で本作の演出を手がけたが、初日の前日に倒れ、翌朝 3月5日に永眠した。岸田はこの文で、パリ留学中の1922年にモスクワ芸術座の『どん底』(スタニスラフスキイのサーチン、チェーホフ夫人クニッペルのナースチャ等)を見たこと、帰国後、小山内薫訳・演出の『どん底』がじめじめして暗く、やりきれないほど「長い」こと等を指摘する。「戯曲「どん底」は、長い北欧の冬からの眼醒めを主題とする希望と歓喜の歌が、この、辛うじて人間である人々の胸の奥でかすかに響いてゐるやうな気がする。コーリキイは、「どん底」の人々の誰よりもスラヴ的「楽天家」なのである」と。

さらに岸田の「『どん底』ノート」(プログラムには未掲載)には登場人物についての短いメモが記され、たとえば、ルカは「最大の悪人、最も有害な存在。人を油断させ、人を嘘で酔はせる。空ろな希望に身を任させる。これが、やさしさの正体」とある(『岸田國士演出 台本「どん底」——神西清訳による』角川書店、1954)。

岸田が強調する作品の「明るさ」は、同じ文学座の五戸真理枝演出にも引き継がれていた。が、ルカには、岸田のいう悪人性は見られず、きわめてポジティヴな造形だった。巡礼者ルカの悪人性、有害性についてはもちろん議論の余地がある。翻訳者によれば、ロシアでもルカの人物像に関して論争があるらしい。だが、少なくともルカの言葉に踊らされた俳優が自死した結末からすれば、配布された「登場人物紹介」(上掲)の、「あったかい」「とても優しい」「おじいちゃん」との一面的な要約には、違和感がある。

ルカの悪人性を押さえたうえで、本作の明るさを読み取った岸田國士はいったいどんな舞台を創ったのか。観てみたかった。

ところで『岸田國士演出 台本「どん底」』に、演出助手を務めた戌井市郎の「稽古日誌」が載っている。興味深い記述が少なくないが、とりわけ次の指摘には強い共感を覚えた。

発声につき、所謂、音汚く怒鳴ることを極力避けるよう注意あり。

画家ブブノワ女史*1、来座。総じて日本の舞台俳優は怒鳴りすぎることを指摘。

 岸田の「注意」と、当時の在日ロシア人の「指摘」は奇しくも重なっている。こうした六十数年前の注意や指摘は、現在の日本の演劇界にもいまだに有効だといわざるをえない(今回の舞台はさほどでもなかったが)。

*1:ワルワーラ・ブブノワ(1886-1983)はロシア人美術家で、妹は、諏訪根自子や岩本真理などを育てたヴァイオリン教師の小野アンナ。オノ・ヨーコはアンナの義姪にあたる。