フィリップ・マヌリの音楽 2019/聴衆の並外れた傾聴【追記】

初めてマヌリの音楽を聴いた(6月13日 19:00/東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ メモリアル)。

この公演で特筆すべきは、聴衆の〝並外れた傾聴〟だ。みんな物音ひとつ立てず集中して聴いていた。ただそれだけのこと。だが、昨今、そんな聴衆に出会えることはめったにない。残念ながら、これがいまの日本のクラシック音楽界、ひいては劇場(ホール)文化の現実だ。

コンサートについてはごく簡単にメモする。

指揮:ペーター・ルンデル

管弦楽東京都交響楽団

ドビュッシー/マヌリ編 管弦楽組曲第1番より《夢》(1883/2011)

まずは都響の密度の濃い演奏に驚いた。この密度はマヌリの編曲とも関係するのか。オーボエヴィオラ、ヴァイオリンのソロが美しい。

マヌリ《サッカード~フルートとオーケストラのための》(2018)

フルート:マリオ・カローリ

フルートの弱音で始まり、最後はその音が消滅するように終わる。その間、フルートの始原的な音の存在に、オケの弦楽器が目覚め、呼応するように音を発生させる。やがてオケの響きは発展し、フルートと拮抗し、互いに音を増幅させて相争う。弦の奇妙な擦る音が印象的。豊かな響きが横溢した。

アンコールはドビュッシーの「シランクス」。静まりかえるホールにパンの笛が響いた。その間、マヌリと指揮者はシモテに立って聴いていた。ここで20分休憩。

マヌリ《響きと怒り~オーケストラのための》(1998-99/2016)

左右に二つのオケを、正面上部(オルガンの前)に二つのブラス群を、それぞれ配置。ちょっとマタイ受難曲みたいだ。音楽はフォークナーの小説『響きと怒り』の構造を参考にした由。チャプターごとに語りの視点を変えるような趣向を想像したが、違った。そもそも「同じシークエンスの連続を繰り返す」というが、まったく聞き取れず。前半はやたらとベルの音がした。途中から上部のブラスが鳴り始め、トランペットが交互にラッパを持ち上げて・・・。変拍子の個所などは《春の祭典》とか、弦楽アダージョ風のところはマーラーの緩徐楽章とか、ジャズっぽい部分はバーンスタインなどを想起した(われながら脳内の楽曲インターテクスチュアリティが乏しい)。とにかく〝響きと怒り〟は聴取した(「人生は歩く影にすぎない・・・それは白痴が語る物語だ。響きと怒りに満ちているが、意味は何もない」『マクベス』)。

《サッカード》もそうだが、とてもエンターテイニングで、現代音楽に特有のいわゆる〝ひとりよがり〟はない。なるほど「コンポージアム」でマヌリが選出した四人のファイナリストもみなそうだった訳だ。納得。

冒頭でも書いたが、この日は指揮者が完全に手を降ろすまで誰も拍手しない。落下音は皆無だし不作法に咳をする人もいない。実に気持ちの好い空間だった。

実は、マヌリが「日本では、聴衆の傾聴が並外れています」とか、「演奏中の集中度は、まったく並外れて素晴らしいものです」というのを読んで、ほんとか、と思っていた(ピエール・ブーレーズ+ジャン=ピエール・シャンジュー+フィリップ・マヌリ『魅了されたニューロン——脳と音楽をめぐる対話』笠羽映子訳)。

なるほど、マヌリの聴衆は、というか、初めて接する音楽(現代音楽)の聞き手は集中して耳を傾けざるをえない。どうやら「並外れた傾聴」はその結果らしい【追記:現代音楽でも曲によっては集中しづらい場合がある(「コンポージアム」のリンドナー『ENTELEQUIA』が私にはそうだった。かといってノイズを発したりはしないが)。とすれば、これはむしろ「報酬」の問題というべきか(同書)。マヌリの音楽は、傾聴すれば豊かな響きがもたらす「快楽」という(肯定的な)報酬が返ってくる。先にエンターテイニングといったのはそのことだ。つまり、マヌリの聴衆が並外れた集中をみせるのは、彼の音楽に起因するのかも知れない】。

一方、新国立劇場のオペラや在京オケの定演等でノイズが多いのは、すでに知っている音楽を「再認」するために来ている人が少なくないからだろう。本当にオペラを見(聴き)に来る人、本当に音楽を聴きに来る人の割合はどうすれば高くなるのか。【これは、音楽(芸術)文化のステークホルダーにとって、かなり重要な問題だと思う。】