『上岡敏之ピアノリサイタル』/至福の時に感謝

夜標記のコンサートを聴いた(3月19日 19:00/すみだトリフォニーホール)。
新日本フィルハーモニー交響楽団音楽監督 上岡敏之によるピアノリサイタル。定期会員やセット券購入者を楽団が招待したものだ(座席選択も可)。つまりクローズドだから、業者がチラシを入れたビニール袋を配ることもないし、チケットを買わない批評家たちも居ない(たぶん)。演奏中の照明はステージ上部と客席天井部の二箇所からのみ演奏者を照らすため、明度が低く落ち着いている。これらの条件下でコンサートを聴くのは初めてだが、とても気持ちの好い時間だった。席は、手の動きを見たかったので1階7列目のやや左寄り。曲目は当日発表された。

ショパン:2つの夜想曲 op. 27
スクリャービンピアノソナタ 第3番 op. 23
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ショパン:子守歌 op. 57
ドビュッシー:2つのアラベスク 第1番
ドビュッシー前奏曲集第1巻より第8曲「亜麻色の髪の乙女
ドビュッシー:喜びの島

冒頭のショパン(1810-49)では空調のせいか開いた譜面がめくれそうになる。その度に、譜めくりの女性が手で押さえるのだが……。最初の数分は、音楽よりそちらの方が気になった。が、上岡はまったく頓着せず、どんどん弾いていく。というか、ほとんど譜面を見ていないのだ。「2つの夜想曲」が終わると、間髪を入れずに次を弾き始めた。譜めくり女性はページをめくるが、曲がスクリャービン(1872-1915)に移ったと気づき、すばやくその楽譜を手に取り、開始のページを開いて台に載せる。そして、すでに弾き終えた「2つの夜想曲」の楽譜をスクリャービンの下からそおっと引き抜いた。音楽は、スクリャービンの方が面白かったか。ピアニストはここでいったん立ち上がり、礼をしてシモテの袖に下がる……。
上岡は再び出て来てピアノの前に座る。例の女性はあわてて駆け寄り、楽譜を開いて譜面台に置く。ショパンの「子守歌」が始まった……。さすがに女性は上岡のやり方を学習したようだ(各楽章や曲を間をおかずに演奏することを「アタッカ attacca」というらしい)。というのは、賢明にも演奏中に次の楽譜の冒頭を開き、譜面台に乗せる準備をし始めたのだ。ショパンからドビュッシー(1862-1918)へ。アラベスク第1番から「亜麻色の髪の乙女」を経て、「喜びの島」へ。アタッカで休まずに弾いていく上岡の演奏を聴きながら、音の分節がどんどん細分化していくような感じを受けた。4つの曲を聴いたというより、次第に変化し発展していくひと続きの音楽を体感した、そんな印象だった。それにしても、譜めくり嬢は大変でしたね。ここで20分休憩。

ショパン前奏曲 op. 45
ショパンピアノソナタ 第2番 op. 35
ショパンスケルツォ 第3番 op. 39

今度は譜面台にあらかじめ3つの楽譜が開いた状態で重ねられていた(だよね)。後半はすべてショパンだが、いわゆるショパンらしいロマンティックな甘さとは別の音楽が現出した。ある種、ベートーヴェンのような厳しさが支配的な曲想。「ピアノソナタ第2番」では3楽章の葬送行進曲から、間髪を入れずに開始された4楽章。あのプレストで疾走するユニゾンのパッセージは凄まじかった。最後の「スケルツォ 第3番」は、自分の思いを鍵盤に打ちつけていくような、まさにベートーヴェンを聞いているような感触。弾き終えると上岡は譜めくり嬢と握手した。客席の方を向いた上岡の表情は、指揮を終えたときとはどこか違っていた。音楽が身体の中をくぐったあとだからか。
何回かのカーテンコールの後、上岡は譜めくり嬢と楽譜をめくりながら出て来た。客席からは嬉しい笑い声。一曲目はショパンの「幻想即興曲」。これ見よがしのサーカスとは一味も二味も違う演奏。上岡は「いわゆる」ショパン的な演奏は絶対にしない。オケを振るときと同じだ。拍手が止まないので、再度、彼女と楽譜をめくりつつ登場。また会場から笑い声。「指が動くかどうか」というような身振りの後、左手の早いパッセージが始まった。ラフマニノフ(1873-1943)の「楽興の時」第4番。むかしラザール・ベルマンのレコードでよく聴いたあの曲だ。弾き終わると、手が疲れたという仕草をしたが、なかなかのもの。拍手はまだ止まず、今度は小さめの楽譜を繰りながらピアノに向かった。譜めくり嬢に何か言ったが、彼女は首を振る(なんの話?)。バッハ(1685-1750)の「平均律クラヴィーア曲集」第1巻から第1番 前奏曲とフーガ。冒頭のアルペジオを聴いた瞬間、グッときた。美しい。なんという透明感! これまでとはまったく異なる音の響き。上岡は何かに捧げるように弾いていく。バッハの音楽がそうさせるのか。聴いているとすべてが浄化されるように感じる。人間はこんな美しいものを創り出すこともできるのだ。そう思えば、少々のことは堪えられる気がしてくる。アンコールではよりポピュラーな曲で、聴衆を喜ばそうとしたのだろう。こんな素晴らしいコンサートをサブスクライバーにプレゼントしてくれた上岡敏之新日本フィルハーモニー管弦楽団に感謝したい。