すみだサマーコンサート2019 バレエ音楽『ロメオとジュリエット』上岡・新日本フィルと中高生演劇のコラボ

「すみだサマーコンサート2019 ―Chance to Play―」を聴いた(7月27日 14:00/すみだトリフォニーホール)。

中高生による演劇と上岡が率いる新日本フィルのコラボ。素直で物怖じしない前者の演技を、後者は美しく時に苛烈ともいえる極上の演奏で支えた。あるいは、若者たちの真っ直ぐなあり方に呼応した結果、最上級の音楽が現出した。そういうべきか。プロコフィエフの『ロミ&ジュリ』はこれまで主にマクミラン版バレエの舞台で何十回と聴いてきたが、今回ほど質が高く感動的な演奏は初めてだ(条件がステージとピットでは違うとしても)。

音楽:バレエ音楽『ロメオとジュリエット』組曲より抜粋

指揮:上岡敏之

管弦楽新日本フィルハーモニー交響楽団

コンサートマスター:崔 文洙

演劇:『ロメオとジュリエット』〜たった5日間の恋の物語〜

演劇・台本・振付・衣裳:日本大学第一中学・高等学校/小野弘美(英語科教諭/演劇部顧問)

演技の主たる場所はオケ後方壁際の壇上。その中央に指揮台のような台が置かれ、ジュリエットが横たわるベッド(死の床)になったり、ロミオがそこに立ち、パイプオルガンのバルコニーに現れたジュリエットに手を伸ばす台の役目も果たす。オケが陣取る舞台の手前は時折ヴェローナの街路に早変わりする。台本はシェイクスピアの原作をかなりアレンジ(単純化)していた*1。上演時間の制約や分かりやすさのためだろう。少し気になる点もあったが、今回の上演には一応フィットしていた。

全体の構成は「劇付随音楽 incidental music」的というのか、先にオケが場面を音楽で描いた後、役者が台詞と動きで演じていく。その意味では、どの曲も序曲の機能が付加された。だが、ドラマが進むにつれて、音楽が前場の演技を引き継ぐ機能もさらに加わる。聴衆(観客)は、見てきた演者たちの台詞や行動を思い返しつつ上岡の指揮振りを見、演奏を聴くことになるからだ。音楽と演技が同時進行する場面も数回あった。

1.「モンタギュー家とキャピュレット家」(第2組曲より)—「ヴェローナの街角 両家のいさかい」

2.「少女ジュリエット」(第2組曲より)—「舞踏会の前 ジュリエット結婚話」

3.「ジュリエット」(第3組曲より)—仮面舞踏会 運命の出会い」

4.「ロメオとジュリエット」(第1組曲より)—キャピュレット家バルコニー 再会」

休憩(20分)

5.「僧ローレンス」(第2組曲より)—「僧ロレンスの計らい 愛の誓い」

6.「タイボルトの死」(第1組曲より)—「両家のいさかい 親友たちの死」

7.「別れの前のロメオとジュリエット」(第2組曲より)—「悲しみと憎しみの両家 裁きと別れ」

8.「ジュリエットの墓の前のロメオ」(第2組曲より)—「ロレンスの計画 愛する人の死」

9.「ジュリエットの死」第3組曲より—「悲しみにくれる両家」(無言劇)

冒頭の「大公の宣言」で両家の不和に対する大公の決然たる思い(ff)と憂い(ppp)が音化され、「騎士の踊り」の音楽では子供たちの純愛を踏みにじる親同士のプライドが威圧的に空間を満たした。悲劇の始まりだ。

「ロメオとジュリエット」(4)を聴くと、いつもならバルコニーシーンのパ・ド・ドゥ(バレエでは一番の見所)が頭に浮かぶ。だが今回、二人の出会いの演技の直後に演奏されたため、聴きながら、出会った後の二人の思いをあれこれ想像した。恋の喜び、相手はよりによって仇敵の一人娘/息子? 胸の高鳴り、歓喜、等々。音楽が終わるとバルコニーシーンが始まり、想像が劇化されていく…。

 「別れの前のロメオとジュリエット」(7)は素晴らしかった! 少し詳しくメモする。原作ではロミオを帰したくないジュリエットが「あれは朝を告げるヒバリじゃない。夜に歌うナイチンゲールよ」と言い張る場面。音楽ではフルートの抑えたソロ(荒川洋)から始まり、クラリネット(重松希巳江)、第一ヴァイオリン(崔文洙)、第二ヴァイオリン(吉村知子)、チェロ(長谷川彰子)、ヴィオラ(井上典子)、オーボエ(古部賢一)等々、極上のソロが続く。ヴィオラのソロでプロコフィエフヴィオラ・ダモーレを指示している。ジュリエットの愛のテーマを奏するには、たしかに「愛のヴィオラ viola d’amore」がふさわしい。井上はモダン楽器でさらりと弾いたが、気品のある繊細な感触があとに残った。コンマスを始め、トッププレーヤーのソロはみな質が高い。中間部の勇壮なホルンに導かれるシークエンスは、バレエでは(乳母にも頼れず)孤独なジュリエットが考えた末、ロレンス僧のもとへ助けを求めに駆けつける音楽。最後のアンダンテはロレンスに貰った薬への恐怖(永遠に目覚めず死ぬかも知れない)とロミオへの愛を思い出し、恐怖に打ち勝つ音楽。薬を飲んだときの吐きそうな感じも音化されていて面白い。

3の「仮面舞踏会」のダンスシーンでは、本作とは別の音楽が演奏された(プーランクの「フランス組曲」より第1曲とのこと)。

6で親友のマキューシオが殺された敵討ちにロミオがティボルト(タイボルト)と決闘するシーンは(剣の速い打ち合いを表す)音楽と同時進行。ただし、曲の前半はマキューシオとティボルトとの闘いを描いたものだが、特に違和感はなかった。音楽の最後の部分はティボルトの縁者(マクミラン版ではキャピュレット夫人)の大仰な嘆きとロミオへの恨みが印象的に描写されている。

最後の場面では、ロミオが納骨堂で横たわるジュリエットの元へ駆けつけ、仮死を死と思い込み服毒自殺する。やがてジュリエットが目覚め、最愛の夫の死に驚き慟哭する。ジュリエットの「ここにナイフがある」と語るあたりから「ジュリエットの死」の音楽が始まり、演技と同時進行する。ジュリエットの自刃。やがてロレンス僧や二人の両親、友人たちが次々に登場し二人の死を悼み、両家は和解するが、すべて黙劇。この間、上岡と新日本フィルは演技に寄り添い、二人の無念さや悲しみが深く内側へ沁み入るように抑えて演奏した。ラストは音が消えると同時に暗転。しばらく誰も手を叩かなかった。

前半の終了時も、照明が暗くなり上岡はさっと袖へ引っ込み、拍手させない。休憩後も指揮者はすでに台上におり、拍手なしで開始。あくまでもドラマの流れを最優先させた素晴らしい演出。【追記 パイプオルガンに当たる照明がとても綺麗で、舞踏会では赤系、バルコニーシーンでは青系と場面によって変化し、大変効果的だった。】

日本大学第一中学・高等学校演劇部の生徒たちは癖のない素直な演技でよく頑張った。指導者がよいのだろう。マイクなしでも声はよく聞こえたから大したものだ。響きすぎて少し聞き取りにくい台詞もあったが、それは彼/彼女らの責任ではなくホールの音響のせい(本来演劇のための空間ではない)。生徒たちには貴重な経験だったと思う。

 

*1:台本の〝単純化〟について、少し気になった点は以下の通り。

①ジュリエットはパリスとの縁談を拒否するときロミオへの愛を両親に告げていたが、これはおかしい(親に言えるぐらいなら秘密結婚などしないだろう。それほど両家は反目している)。これだと悲劇の前提条件が甘くなる。

②ロレンス僧の手紙がロミオに届かない理由が、たんに僧の従者がロミオを探せなかったからとなっていた。これだと悲劇の原因がその従者に帰せられてしまう(原作はペストのため足止め=不可避性=運命=悲劇性)。

③ばあや(乳母)は終始ジュリエットの味方をしていたが、原作では、ロミオの追放後、乳母はパリスとの縁談を、両親同様、強く勧め、ロミオを貶める「ロミオなんか雑巾ですよ」。結果、ジュリエットは親にも乳母にも頼れず孤独に陥る(宗教者のロレンス僧は別)。この孤独こそ、ジュリエットが成長していく条件ともいえる。

④パリスの滑稽化(原作は立派な貴族の若者)/ロミオの片思いの相手ロザラインの不在

①②については、原作に忠実であればもっと悲劇性が高まったと思われるので少し残念な気もする。③も同様だが、④は今回のままでもよいと思う。