新国立劇場オペラ《ホフマン物語》/ポップでアーティスティックなプロダクション/初日の客は反応が悪すぎ

ホフマン物語》の初日を観た(11月28日/新国立劇場オペラハウス)。

作曲:ジャック・オッフェンバック(1819-80)
指揮:フレデリック・シャスラン
演出・美術・照明:フィリップ・アルロー
衣裳:アンドレア・ウーマン
振付:上田 遙(振付助手:キミホ・ハルバート)
再演演出:澤田康子
合唱指揮:三澤洋史
音楽ヘッドコーチ:石坂 宏
舞台監督:斉藤美穂

ホフマン:アルトゥーロ・チャコン=クルスニクラウス
ニクラウス/ミューズ:アンジェラ・ブラウアー
オランピア幸田浩子
アントニア:浜田理恵
ジュリエッタ:横山恵子
リンドルフ/コッペリウス/ミラクル博士/ダペルトゥット:マーク・S・ドス
アンドレ/コシュニーユ/フランツ/ピティキナッチョ:高橋 淳
ルーテル/クレスペル:大澤 建
ヘルマン:塩入功司
ナタナエル:渡辺文智
スパランツァーニ:柴山昌宣
シュレーミル:青山 貴
アントニアの母の声/ステッラ:山下牧子
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団

初演(2003年)以来この舞台がすっかり気に入り、2005年の再演は三度も通ったほど。
今回8年振りに見たことになるが、フィリップ・アルローのプロダクションはやはりよい。アーティスト(詩人)の生と死を、ポップでアーティスティックな演出・美術・照明そして衣裳(アンドレア・ウーマン)で描く。今回は、フレデリック・シャスランの指揮が東フィルから艶のある音色を引き出し、見事だった。特に弦楽器のつんざくような響きが印象的。同じくアルロー演出《アンドレア・シェニエ》の再演もシャスランが舞台の質をぐっと押し上げた記憶がある。オペラ公演における指揮者の存在はかなり大きい。
歌手は悪役のマーク・S・ドスが歌唱も演技も群を抜いている。ニクラウス/ミューズ役のアンジェラ・ブラウアーはクリアな発声と的確な演技で舞台に安定感をもたらした。タイトルロールのアルトゥーロ・チャコン=クルスニクラウスは、懸命に歌ってはいるのだが、力みからか昂ぶった歌声が少し上ずり気味。オランピア幸田浩子は10年前より声量や艶は増したが、〝ピンポイント感〟は若干後退したか。それでも、巧みな人形振り等で聴衆を大いに沸かせた。さすが。アントニアの浜田理恵は質の高い歌唱で仏語も自然。ただ、ホフマンとの二重唱ではもっと心を開き、枠からはみ出してもよい。ジュリエッタの横山恵子は梓みちよ(ちょっと古いか)を彷彿とさせるアウラで好演。ホフマンとの二重唱では両者の交感が(特に孤立したチャコン=クルスニクラウスの)歌唱を底上げした。グッジョブ! 柴山昌宣は初演から毎回スパランツァーニを歌っている。声量もあるし演技もはまっている。あとは仏語か。高橋淳は貫禄がついていたが、演技では(特にフランク)いい線までいくのに結局〝外す〟ところは相変わらず。ルーテル/クレスペルの大澤建は声がくぐもりがち。シュレーミルの青山貴は豊かな歌声だが姿はちょっと太すぎか。ヘルマン役の塩入功司はホフマンとのやり取りでも負けていない。ナタナエルの渡辺文智はいまひとつ腹が決まっていない。
キミホ・ハルバートを始め谷桃子バレエ団のダンサーたちが快活な動きで、舞台に生気を注いだ。
本作は未完成のためいろんなヴァージョンが存在するという。このアルロー版では、最後にホフマンが手渡されたピストルで自殺する。いかにも芸術家(詩人)らしい最期だが、「生身の人間は死んでも、詩人は蘇る」ことを暗示するためだろう。オランピア、アントニア、ジュリエッタの三人がホフマンの遺体に花を手向ける。ニコラウスからミューズに戻り歌うアリア「燃やした心の灰で、その天賦の才を暖め/哀しみには悠然と微笑みかけるがいい。/ミューズはお前の祝福された苦しみを和らげるだろう」。グッとくる言葉だ(W. B. イエイツの短詩「選択」The Choice を想起)。三人の女が見守るなか、ステラ、リンドルフ、ミューズらと合唱が「ひとは愛によって大きくなり、涙によってさらに偉大となる」と声を合わせて幕。
初日は客の反応が悪く、落下音も多い。今回は拍手のタイミングが分かりづらいこともあろうが、休憩後の指揮者の再登場やカーテンコールでも、一階席では手を叩かない客が少なくない。高齢者は拍手が億劫なのかも知れないが、先日見た北とぴあ国際音楽祭(フィガロの結婚)の客も年齢層は高いが、実に反応がよく、笑い声や拍手で舞台を大いに盛り上げていた。高見から品定めするような聴衆の在り方では、真によい舞台は生まれない。劇場芸術は客席と一緒に創り出すものだという〝常識〟について、劇場側はもっと発信してもよいのではないか。