佐藤俊介の現在(いま) Vol.1 ヴァイオリン×ダンス―奏でる身体/至福の一時間

昨日、佐藤俊介のヴァイオリンと柳本雅寛のダンスのコラボレーションを観(聴い)た(2月14日 15:00/彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール)。

出演:佐藤俊介(ヴァイオリン)、柳本雅寛(ダンス)
演出:田村吾郎


曲目
・ハインリヒ・イグナツ・フランツ・フォン・ビーバー(1644-1704):《ロザリオのソナタ集》(1676)より Passacaglia ト長調
・トーマス・バルツァー(c. 1630-1663):「ジョン、さぁキスして」によるディヴィジョン(c.1656)
・セルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953):無伴奏ヴァイオリン・ソナタ ニ長調(1947)より第1楽章(Moderato, 4/4)
・J. S. バッハ(1685-1750):無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調 BWV1003(1720)より 第3楽章(Andante
・ベーラ・バルトーク(1881-1945):無伴奏ヴァイオリン・ソナタ(1944)より 第3楽章(Melodia, Adagio)
・ウジェーヌ=オーギュスト・イザイ(1858-1931):無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調(1923)より 第4楽章 Les furies(Allegro furioso, 2/4)
・セルゲイ・プロコフィエフ無伴奏ヴァイオリン・ソナタ ニ長調(1947)より第3楽章(Con brio, 4/3)
・ウジェーヌ=オーギュスト・イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第4番 ホ短調(1923)より 第2楽章 Sarabande(Quasi lent, 3/4)
・J. S. バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 ニ短調 BWV1004(1720)より 第5楽章 Chaconne


主催:公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団
助成:平成26年文化庁劇場・音楽堂等活性化事業


かたちはヴァイオリン独奏とソロダンスのコラボだが、音楽を全身で聴いたというのが実感。いわゆるコンサート然と演奏するだけでは完全には表出しきれない楽曲の潜在的要素が、柳本雅寛の身体(ダンス)と、田村吾郎のファシリテーション(演出)により、シアトリカルに顕在化した。もちろん、すべては佐藤俊介のとんでもない音楽的才能があっての話。本当に彼は信じがたいほど優れたヴァイオリニスト。佐藤は楽曲の時代様式を自在に弾き分ける。といっても、今回はバロックは使わず(たぶん動きを考慮して)モダン楽器で通したせいか、ビーバーでもバッハでも、その時代に遡るというより、いまここの地平で、いわば声色など使わず地声のままでスタイルだけ変えて弾ききった。そう感じた(バロック楽器での演奏もぜひ聴いてみたい)。
ホール内はかなり暗く、座席番号も顔を近づけないと見えないほど。目が慣れてくると、舞台には上手に幅2〜3mほどのひな壇が、中央やや下手寄りに小さめの平台や箱馬が重ねられ、下手にも台が数段積まれている。いずれの台も無造作に組まれた感じで、リハーサル現場に立ち会うような雰囲気。
暗闇のなか舞台の中央奥で佐藤がビーバーのパッサカリアをかすれたような音色で弾き始める。すごくよい音。やがて、仄かな光が佐藤を照らすと、その後から背後霊のように柳本が現れる。二人とも白シャツに黒パンツ。柳本は歩きながら演奏を続ける佐藤にまとわりつくように動き、踊る。ビーバーの《ロザリオのソナタ》は聖母マリアとイエスの生涯を扱う15曲のソナタから成るが、16曲目の「パッサカリア」は守護天使を表すという(自筆譜にはそれぞれ銅版画が付されており、この「パッサカリア」の画には首を傾げた子供と手をつなぐ守護天使が描かれている)。柳本の踊りは明らかに守護天使をイメージしたものだ。曲が終わると、佐藤が念入りに調弦する間(パッサカリアは変則チューニングではなかったはずだが)、柳本が上手の袖から譜面台を持ち込んで中央の段に置き、譜面を載せる。佐藤はその前に座り、バルツァーのディヴィジョンを弾く(たぶん譜面はかたちだけで暗譜だったと思う)。舞曲風の快活な音楽に合わせ、柳本が佐藤の目の前で気持ちよく踊る。この後、柳本は、舞台の小道具や平台等を移動させるが、その間、佐藤はプロコフィエフソナタを弾いた。この第1楽章は場面転換というかセットの移動用というわけだ。次はバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番の第3楽章。下手と上手の壇上に灯りが点り、その下で柳本がアンダンテの穏やかな音楽に合わせてゆったり踊る。闇と光の効果が絶妙だ。ビーバーでは霊と人との未分化なありようを仄かな照明が神秘的に表出したが、バッハでは、左右のライトが作り出す陰影が個人の深い孤独を印象づけていた(カトリックプロテスタントの対比?)。柳本は少し早めに下手から去り、佐藤は弾き終わると、数名から熱い拍手が起こったが、そのまま上手から退いた。
少し間があった後、バックステージからヴァイオリンの叙情的なメロディが聞こえてきた。バルトークソナタから第3楽章のアダージョだ。ただし、その響きは前方ではなく右側の外の通路あたりから、あるいは左の通路から、はたまた右上方から聞こえてくる。はじめは佐藤が移動しながら弾いているのかと思ったが、それにしては間隔があまりに短い。こんなに速く動けるはずがない。スピーカーをあちこちに設置していたのだろう。これは生演奏か、それとも録音? あれこれ考えていると、舞台の上手から佐藤が再登場。黒いシャツに着替えている。台に座り、客席の外から聞こえる音楽に合わせて弾き始めるが、すぐに止める。面白い趣向。バルトークの瞑想的な響きが、聞き手の身体をすっぽりと包み込む。外から響くため、とても柔らかでやさしい音色だった。
同じく黒シャツに着替えた柳本も再登場し、イザイのソナタ第2番の第4楽章が始まる。アレグロの烈しい曲想に、柳本の動きも猛烈に勢いを増していく。やがて、闇の中から柳本の激しい息づかいが聞こえてくる。息を切らし仰向けに横たわる柳本を、休ませずまた踊りへと駆り立てる佐藤(ヴァイオリン演奏で柳本をけしかける場面から勅使川原三郎の『ラジパケ』を想い出した。白人のトロンボニストが楽器で鳴き真似をしながらアヒルの群れを追い詰めるシーンを)。佐藤の催促を拒絶し、かわし、反撃する柳本。こうした二人の〝対話〟がそっくりプロコフィエフソナタ第4番第3楽章によって快活に(Con brio)舞台化され、生きられた。つまり、柳本の座った台を取り上げる。逃げる柳本を追いかける。柳本の反撃をかわす・・・。この動きを佐藤はプロコフィエフ無伴奏ヴァイオリン・ソナタを弾きながらやってのけたのだ。信じられますか? 柳本が佐藤の背後でヴァイオリンの弓を二人羽織のように運弓したり、前者が後者の頭を押さえると音が止むコミカルなシークエンス(後者のギャグは新国立の『CLOUD/CROWD』でも八幡を相手に使っていた)等々も。柳本には青木尚哉とのコミカルな掛け合いダンスで何度か笑わせてもらったが、今回の相手はダンサーならぬ演奏中のヴァイオリン奏者である。
二人が上手へ引っ込んだ後、まず弓を持った柳本が登場。やがて、ヴァイオリンのみの佐藤が「弓を奪われたって平気だ」といわんばかりにピチカート演奏しながら、柳本に迫る。騎士が剣を相手に差し出すように大きく弧を描く美しい動きを柳本は何度か繰り返し、弓を佐藤に返す。弓を受け取った佐藤はここからarcoで演奏を続ける。が、なんのことはない、そもそもイザイのソナタ第4番の第2楽章(サラバンドはピチカートから始まるのだ! 柳本の踏み足が太鼓のように聞こえた後、冒頭と同じ中央奥で佐藤がバッハのシャコンヌを弾き始める。照明は明るめ。やや早めのテンポで演奏されるシャコンヌはちょっと言葉にならないほど素晴らしい。すごい集中力。こんなシャコンヌ聴いたことがない。ダンスの絡みはもうないのかと思ったら、中間部で下手と上手に灯りが点り、下手の袖から柳本が登場する。弾きながら少し前に進み出た佐藤は、ちらっと柳本を見たとき、唯一初めて音程が少し甘くなった。その後、柳本は左右の壇上で踊り、中央の佐藤の背後に収まり、冒頭の背後霊ならぬ守護天使の動きを巻き戻すように見せて暗転となった。
至福の一時間。終演後、出演の二人に演出者も交えてアフタートークがあった。舞台上の動きはすべてスコアに根拠があると佐藤が語っていたが、客席での印象と完全に一致する。そもそも音楽には人を動きや舞踊に駆り立てるなにかが含まれる。というか、音楽そのものが身体的な営為なのだと思う。昨年ペーテル・エトヴェシュを特集した演奏会を聴いたが、いずれも演奏者の様々な「身振り」を伴うきわめてシアトリカルな楽曲だった。帰りの埼京線でそのことを想い出した。柳本雅寛は、9曲すべて今回初めて聴いたと云った(ほんとか)。もしそうなら、佐藤の演奏をいっそう集中して聴けたのではないか。佐藤俊介はすべて暗譜で弾ききった。動きながらの演奏だから当然かも知れないが。しかも、このうえなく質の高い演奏で。これが、普通のコンサートだとどうなるのか。特にシャコンヌの前半を聴いた限りでは、大いに期待してしまう。だが、同時に、今回と同種のコラボもぜひまた見て(聴いて)みたい。田村吾郎はBCJの演奏会形式《ポッペアの戴冠》(2008)で初めてその演出に接した。字幕が出て消えるさまが、オペラの内容と密接にリンクして面白いと感じた記憶がある。またこの三人でなにかやってください。