新国立劇場バレエ『白鳥の湖』2015/“門前の小僧”と竹内敏晴の身体論

白鳥の湖』初日と三日目のマチネ・ソワレを観た(6月10日 19:00,13日 14:00,18:30/新国立劇場オペラハウス)。
米沢唯が本作に主演するのはこれで三度目。2012年5月の初役時は、精神そのものが踊っているような在り方に驚嘆。誰にも似ていないオデット/オディールを見せつけた(http://d.hatena.ne.jp/mousike/20120515/1337087553。二回目の2014年2月は、ラインの美しさを意識した分、役を生きる度合いはいくぶん抑制された印象。それでも、初回同様パートナーを務めた反応のよい菅野英男と、バレエでは希有な対話劇を創りだした(http://d.hatena.ne.jp/mousike/20140218/1392718433 http://d.hatena.ne.jp/mousike/20140311/1394527634)。今回の相手役は昨秋『眠れる森の美女』で初めて組んだワディム・ムンタギロフ。初日の三日前に来日予定とか。さらにNHKの収録カメラが入る。どんな舞台になったのか。

音楽:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー
振付:マリウス・プティパ/レフ・イワーノフ
演出・改訂振付:牧阿佐美

装置・衣装:ピーター・カザレット
照明:沢田祐二
指揮:アレクセイ・バクラン
管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団コンサートマスター:三浦章宏)

初日 10日(水)19:00 米沢唯&ワディム・ムンタギロフ
序曲。1st オーボエはなんと『こうもり』同様S氏・・・。ロートバルト(貝川鐵夫)がプリンセス(米沢唯)を大きな羽根で包み(後者の白いドレスの一部が少しはみ出した)、白鳥に変える。このときトランペットは高音がピンポイントで上がりきらずグリッサンドになってしまった。
第一幕。ムンタギロフは日本のダンサーたちに馴染んでいる。家庭教師はまずまずか。道化(八幡顕光)はさすが。王妃(楠元郁子)は、以前よりよくなったが、王妃としてまた母としての慈愛が出てこない。硬い、開かれていない。西川貴子を見習う必要あり。トロワの池田武志はジャンプが高い。左右両回転はなかったが、生きがよい。踊りのスムーズさはこれから。他の二人の女性(柴山沙帆、細田千晶)もよい。ジークフリートの内省的なソロ。ムンタギロフは長身で手脚が長い分、見栄えはするが、踊りの造形や彫琢はやや粗く未完成な印象。
第二幕。貝川鐵夫のロートバルトは、もっと悪魔の腹でいてほしい。米沢唯のオデットには、生きた鳥を捕まえたときに感じる、あの触覚的な荒々しさがあった。人間とは異質な存在(動物)の生命感。それでいて、ラインの美しさも保たれていた。悪魔のロートバルトに魔法をかけられ、白鳥に身をやつしたプリンセス。だが、王子のムンタギロフは、そうした白鳥=米沢にその場で呼応しているようには見えなかった。ただ驚いているような。踊りとしては二人の絡み合いにまったく違和感はないのだが。ただ、王子が白鳥(オデット姫)を捕まえようとする仕草が気になった。『ラ・シルフィード』でジェイムズがシルフィードを捕らえようとするあの動き。あんな動きは(少なくともここでは)見た記憶がない。次第にオデットから寄る辺ない感じがただよった。最後にロートバルトが出てきて、ジークフリートに手を差しのべながら上手奥へ退くとき、王子に何か呟きながら去って行った。「私を忘れないで」と。初役時に見て以来だ。前回の再演ではなかったような。ヴァイオリンのソロ(三浦章宏)、チェロのソロ(金木博幸)ともに素晴らしい。ただオーボエが・・・。ハープも。
第三幕。キャラクターダンスはみなよい。特にスペインの井澤駿は珍しく切れ味を隠さない。本島美和もノッていた。林田翔平と堀口純も負けてはいない。ハンガリーの踊りの大和雅美とマイレン・トレウバエフは踊る喜びに満ち溢れ、見ていて思わず頬が弛んだ。オディール=米沢は悪魔の娘。ラインがきれい。アダージョ、ヴァリエーション。グラン・フェッテ。これまで高速でトリプル等を入れても静かな印象だったが、今回は意外と豪快。役の属性からそうなったのか(客席にニーナ・アナニアシヴィリが居たようだが、彼女のフェッテは戦車のような重量感だった)。ジークフリート=ムンタギロフのヴァリエーションは喜びを表す踊り。あまり洗練はないがよいと思う。残念だったのはトランペット群。ファンファーレの出だしが慌てたようにぐちゃぐちゃになり、あろうことか二回目も改善されず。
第四幕。牧版の問題点がもっとも顕在化する幕。牧版が踏襲している以前のセルゲイエフ版も悲劇とならない点では不満だった。それを改悪したら・・・。ダンサーたちはよく踊っていたが。・・・


13日(土)マチネ(14:00)米沢&ムンタギロフの二回目
・・・第二幕。オーボエは下降スラーがぎこちない。また、情景(オデットと王子の対話)で、ホルンのロングトーンが途中で不安定になり、一度途切れてまた再開した。たぶん最初のヴァイオリンソロが終わり、オーボエピアニッシモでリズムを刻みながら少しテンポを早めて二回目のヴァイオリンソロへ移行するあたりだと思う。こんなの初めて。ファゴットも不安定。ヴァイオリンソロはこの日もよかった。チェロのソロも。この日のオデットは初日のような動物的な生命力はさほど感じず。どことなく心を閉ざしているような印象。羽ばたきもさほど強くやらない。ラインは大きくきれい。第三幕。ファンファーレは改善された(当たり前だが)。ジークフリートのヴァリエーションは「あの人と一緒になれるんだ!」いう喜びの踊り。初日よりラインが整いきれいだが、なぜかさほどブラボーはかからず。オディールのグランフェッテは初日のほうがよかったか。第四幕。ムンタギロフ=王子は、下手手前で「誓います!」と片手を天に差し出した直後、金管が白鳥のテーマを強音で奏するシークエンスへ突入。ちょっとグッときた。だが、もうこの版の『白鳥』はいいのではないか。
初日組の舞台は6月28日深夜のNHK BSプレミアムで放映される。初日はオケがあまりにひどく、ほとんど使えない。すると二回目の採用になるが、踊りとしては初日の方がよいところも少なくなかった。3月に上演収録された「バレエの饗宴」での『パキータ』の例もある。つまり、編集でどうにでもなるのだろうが、東フィルはもっと危機意識をもってほしい(コンマスの青木高志が2月に辞めたばかりだが、今度はソロコンマスの荒井英治が5月末で退団した。オケの財団役員たちはこの現状をどう考えているのか)。
今回の米沢唯は総じてオデットよりオディールの方が役を生きる度合いが高かった。そう見えた。彼女の「役を生きる」志向は、竹内敏晴の身体論(演技=アクション論)から来ているはずだが、元を正せばスタニスラフスキーの「身体的行動」(physical aciton)に淵源を持つ。だとすれば、ロシア人のムンタギロフはもっと彼女に呼応してもよかった。相手が菅野英男であれば、踊りはともかく、より〝いまここ〟で生きる舞台が記録されたかも知れない。少し残念。もっとも、そうした在り方がカメラやマイクでどこまで捉えうるのかは不明だが。かなり不満を感じた舞台でもテレビ放映で見ると、まったく異なる印象を受けることがよくあった。


13日(土)ソワレ(18:30)小野絢子&福岡雄大
ジークフリート王子は福岡雄大。少しドメスティックだが、以前よりはよい。道化の福田圭吾が王子の持つ本を「逆さです」と直すと、ちょっと・・・。トロワの井澤駿はきれいな踊りのうえに、左右両回転を敢行。だが彼はつねにもっとよくなる余地を感じさせる。福田の道化はいつもながら力みのないきれいな回転。福岡王子の内省のソロ。孤独感や寂寥感が出るともっとよい。
第二幕。小野絢子のオデット。本当に大人になった。丁寧な踊りで情感を出している。ただ、福岡王子が〝他者〟として在るように感じられない。オーボエはこの回がいまのところベストか。ヴァイオリンとチェロの掛け合いでは、バクランがかなり気持ちを入れて振っていた。オデットが王子に手を差しのべながら去るシーンで、小野は福岡になにか呟きながら上手へ退く。最近、米沢と小野は互いによいところを認め合い吸収している。米沢はラインが格段にきれいになったし、小野は役を生きる在り方が身についてきた。両者の成長を見る喜びはサブスクライバーの特権だ。
第三幕。小野のオディールはくっきりした演技。踊りもシャープ。アダージョが終わり、下手へ退く前に一度ジークフリートを振り返り不敵な挨拶を送った。少しコミカルさが混じったがとてもよい。福岡はヴァリエーションで技を見せた。ムンタギロフより踊りの完成度が高い。特に『眠り』以来、踊りを造形する術を体得したように感じる。小野はフェッテで最後まで回りきらなかったが気持ちを切らさないのはさすが。王妃は心が開いていない。
第四幕。二人の愛でロートバルトは滅びる。すると空気が変わり魔法は解ける。小野は「魔法が解けた」とでもいうように照明の変化に目を向けて驚きを表した。輪島拓也=ロートバルトは「なんだこれは!」「魔力が失われていく!」と「愛の力」の効力を演技で表現した。


米沢唯は初めから〝感情〟や〝情感〟ありきで演技(行動)することはまずない。「あらかじめ理解したものをなぞってみせる」やり方は採らないのだ。与えられたフィクショナルな状況(設定)のなかで「身体的に何をするのか」「どう行動するのか」を、徹底的に身体にたたき込んだうえで本番に臨む。あとは、観客と共有する時空間で行動(アクション=演技)すれば「からだ」(無意識)が勝手にやってくれる。おそらく彼女はそう確信している。つまり、そのアクションを通して相手役と遣り取り(対話)すれば「何かが起こってくる」。たとえば、思いがけない感情や情感がおのずと生起する。その感情や情感に身をまかせていけばよい、と。〝役を生きる〟とはそういうことだ。それゆえ、相手役が、その時その場(いまここ)で感度よく応答すればそれだけ舞台に生気が宿り、臨場感が増すだろう。その意味では、ムンタギロフの在り方はさほど対話的とは言いがたく、「何か」を生み出すには至らなかった。この点では『眠り』もある程度そうだった。
米沢唯の「演技」や「踊り」は、つねに竹内敏晴の演技(身体)論を想起させる。竹内の身体論/演技論はメルロ=ポンティスタニスラフスキーから想を得ている。前者については、たとえば、その翻訳者でもある哲学者の木田元との長い対談を出版し(『待つしかない、か。――二十一世紀 身体と哲学』)、また内田樹が「竹内敏晴とメルロ=ポンティ」を著作集の解説として書いている(『竹内敏晴の「からだと思想」4』)。だが、スタニスラフスキーと竹内の影響関係については、本人が何度か言及している以外、たとえば、演劇学(特にロシア演劇プロパー)の視点から論じたものは寡聞にして見たことがない。今回の公演パンフレットで米沢が過去の『白鳥』や『眠り』の本番で思いがけない感情に襲われたことを告げているのは、まさに、竹内/スタニスラフスキーの身体/演技(アクション)論を裏付けているし、また、レッスン時に彼女がほとんど鏡を見ないのは、竹内/メルロ=ポンティのいう「客体としてのみならず主体としての身体(からだ)」であることを忘れない在り方に起因する。たぶんそう。

三年前米沢唯の『白鳥』を見ながら何度も竹内の身体論を想い出し、少なからず興奮した。その約一ヶ月半後、たしか『マノン』初日の休憩時だったか、たまたま彼女に客席でばったり会い(米沢唯と〝ばったり会う〟最初の機会)、そのことを聞いてみた。竹内さんからどんな教えを受けたのかと。すると彼女の口から〝門前の小僧〟という言葉が出てきた。正確には覚えていないが、「・・・門前の小僧で、父が舞台稽古などで話しているのを小さい頃から見聞きしていたので、知らず知らずのうちにその考え方がからだに入っているのだと思います」云々。だいたいそんな主旨だった。昨年出版された先の「セレクション4」をめくっていたら、〝門前の小僧〟が写っていたので驚いた(『竹内敏晴の「からだと思想」4――「じか」の思想』2014年,藤原書店/撮影:安海関二)。キャプションには「からだ’96『めがでてふくらんで――仮面と小銃』の舞台稽古の合間 愛娘の唯ちゃんと(1996年8月 東京・世田谷 北沢タウンホール)」とある。九才の米沢唯。たしかに〝門前の小僧〟がここにいる。