新国立劇場 演劇研修所 第8期生修了公演『アンチゴーヌ』

久し振りに演劇研修生の修了公演を観た(1月11日 Bキャスト/新国立劇場内 Cリハーサル室)。数時間前に中劇場で見たバレエ公演よりはるかに上質で面白かった。

作:ジャン・アヌイ
翻訳:芥川比呂志
演出:栗山民也(演劇研修所長)
美術:伊藤雅子
照明:田中弘子
音響:福澤裕之
衣裳:西原梨恵
ヘアメイク:鎌田直樹
演出助手:坪井彰宏
舞台監督:米倉幸雄

[出演]新国立劇場演劇研修所 第8期生
アンチゴーヌ:西岡未央(A)/荒巻まりの(B)
クレオン:坂川慶成
エモン:永澤 洋
イスメーヌ:滝沢花野
乳母:池田碧水
クレオンの小姓:荒巻まりの(A)/西岡未央(B)
衛兵:薄平広樹
   堀元宗一朗
   永澤 洋
伝令:堀元宗一朗
序詞役:鈴木麻美
合唱:池田碧水
   鈴木麻美
   滝沢花野
   堀元宗一朗


文化庁委託事業 平成26年度 次代の文化を創造する新進芸術家育成事業

アンティゴネー』といえば、ヘーゲルの『精神現象学』を想い出す。といっても覚えているのは、神々の掟(アンティゴネー)と人間の掟(クレオン)の相克とか、兄(ポリュネイケス)と妹(アンティゴネー)の関係がもっとも純粋である等々ぐらい。兄妹に関するヘーゲルの認識はたしか吉本隆明の〝対幻想〟の概念形成に影響を与えたのではなかったか。
アヌイの翻案『アンチゴーヌ』はナチス・ドイツによる占領下のフランスで1942年に執筆され、44年2月に初演された。英語版の初演は1949年、ローレンス・オリヴィエの演出でヴィヴィアン・リーがタイトルロールを演じたらしい。
ジョージ・スタイナーは、人間の条件の内なる永久的葛藤は、男と女、老年と青年、社会と個人、生者と死者、人間と神(神々)の間の対立であり、これらすべてを表現したのはソポクレスの『アンティゴネー』だけだという(『アンティゴネーの変貌』)。だが、アヌイの翻案ではクレオンの内側が入念に書き込まれ、大人と子供、社会(国家)と個人の対立が強調されているようにみえる。国法を犯して兄を埋葬する妹。姉のイスメーヌ(イスメーネー)は金髪の美人(ソポクレスではアンティゴネーが姉)。アンチゴーヌは髪の黒い痩せた少女。美しいイスメーヌに惹かれていたエモン(ハイモーン)はなぜか突然アンチゴーヌに求婚し二人は婚約する。ソポクレスにはないこうした設定はどんな意味があるのか。少女の内的な力や意志の強さを性格づけるためか。
花道のように細長く白い通路が十字に交差した舞台。より長い舞台の一方の端近くにりっぱな椅子が、反対の端には質素な椅子が置かれている。十字の四つの空所に長い舞台を両側からはさむように客席が設えられている。玉座を正面に見た上手奥の一列目で観た。序詞(鈴木麻美)による状況説明のあと、あらためて舞台に姿を現し、台詞を吐くアンチゴーヌ(荒巻まりの)はすでに法を犯した後である。自分の行為の大きさに怯える少女と何も知らない乳母が彼女をおおらかに包み込むやりとり。そしてクレオンとの対決。彼は王の椅子に、アンチゴーヌは質素な椅子に座り、対峙する。やがて兄たち二人の醜い事実を聞かされると、アンチゴーヌは部屋へかえると云い、いったんは〝アンチゴーヌ〟の役を降りるかにみえる。だが、勝ちを悟った叔父クレオン(坂川慶成)の世事にまみれた幸福論をきっかけに、大地(十字路の交差地点)に腹這いとなっていた少女は、あらためて悲劇の道を選び直すのだ。神々によって運命づけられた古代ギリシアの宿命的世界観ではなく、個人の自由意志でことを決定しうる近代的世界観の具現化か。幕切れ近くで、アンチゴーヌとエモンの死体が入った穴の中(十字路の交差地点)へ上から砂が落ちてくる。「自らの生命をかけて「個」を守った」「一人の少女」(パンフレット)および、彼女の生と死に殉じたエモンへの栗山民也によるオマージュだと思う。荒巻まりのは内に思いを秘めた「痩せた少女」を好演した。若い研修生たちにはクレオンは難役だろうが、坂川慶成は重みのある国王役を見事に演じた。身体的にも90年生まれとはとても思えない。衛兵の道化芝居を薄平広樹は自在に演じ、しっかり笑いを取った。乳母の池田碧水はほんわかした母性でアンチゴーヌを包容した。滝沢花野は、叔父の立場を理解する理性的なイスメーヌ造形で実存にこだわる妹とのコントラストをよく際立たせた。本の面白さがよく伝わってくる質の高い舞台である。
いわゆるプロの俳優が出演する舞台より、研修生の方が演出家の意図を純粋に具現しようとするためか、作品の立ち上がりがくっきりと見える。昨年4月に公演した『マニラ瑞穂記』も栗山演出だが、それより、同じ演出家で4期研修生が上演したリハーサル室での試演会(2011年1月)の方がはるかに演劇としての醍醐味を満喫できたように思う。もちろん、研修生たちはプロの役者のようなテクニックや経験はまだ持ち合わせていない。だが、素材のよい彼らが創った舞台には、たとえ未熟な点があったとしても、見る側の想像力で補える余地が〝巧みに〟残されていると感じる。この余地は、質の高い演出と、演じ手の発話や演技に変な癖や習慣(個性とは紙一重)がついていないという条件が揃ってはじめて可能となる。たぶんそう。