俳優座劇場『十二人の怒れる男たち』ファイナルステージ 2018

昨日『十二人の怒れる男たち』を俳優座劇場で見てきた(9月8日 14:00/俳優座劇場)。演出:西川信廣、翻訳:酒井洋子。
このプロダクションを見るのはたしか四回目だが(昨年の公演)、今回で「一旦区切りのファイナルステージ」となるらしい(プログラム/劇場のJ氏によればこの日はちょうど100回目)。
最初はノってないというか、セリフの発話が必然的に響かない印象(100回も演ればそれも無理ないが)。変わったのは、#1の陪審員長(塩山誠司)が声のデカい#10(柴田義之)に「ガキみたいな真似…」と侮辱されたとき。#1はカチンときて、カミテに移動し感情を爆発させる「冗談じゃないよ!」。すると舞台にスウィッチが入り、アンサンブルにリズムが出てきた。その後、強く心が動いた箇所は主にふたつ。
まず、「野球野郎」の#7(古川龍太)が安易に「有罪」から「無罪」に変えたとき、移民の#11(米山実)が彼を叱責して投票を変えた理由を強く迫る場面。曰く「有罪」に投票するなら有罪と「無罪」なら無罪と信じてそうしてくれ。それとも自分が正しいと思うことをする勇気(guts)がないのか、と。返答を迫られた#7は「やつが、有罪とは思わない」と小声で答える。この二人のやりとりに、グッときた。
そして、ラストシーン。父親殺しの容疑がかかる被告の審議も大詰め。自分と息子との確執から、被告の少年を極刑にしたい#3(青木和宣)だが、いまや有罪に固執する唯一の陪審員となり、中央の椅子にひとり座る。他の11人はみな立ったまま後ろから彼を見つめる。「くそっ、ナイフが突き刺さるのが目に見えるようだ」とうなだれる#3。殺された父親と自分とを同一視しているのだ。そんな彼に、「あなたの息子じゃない。ひとの子だ」と#8(原康義)。「生かしてやりなさい」と#4(瀬戸口郁)。長い間の後、#3は小声で「分かった。「無罪」」。#4は退出するとき、頭を垂れたままの#3に近づいて肩にそっと手を置く。すると#3は目を上げ#4が小さく頷くと#3もかすかに頷く(こうした指示は原作にはなく、上着を#3に着せてやるのもここでは#2[岸槌隆至]だが原作では#8 昨年の公演)。こうした一連のラストシーンにもやはりグッとくるものがあった。なぜだろう。
腹の底から敵対しいがみ合ったとしても、相手になにか「伝わる」ものがあることを、その可能性を目の前で見せられたからか。あるいは、現実ではほぼありえないようにみえる「正義」の実現や敵対する相手との「和解」が、ふたつのシーンで示唆されているからか(昨年ブログで書いた通り、安易な「和解」にしない演出はこの意味で効果的)。これら二つのシーンの感動的度合いは、現実のデモクラシーが劣化した度合いと正比例するのかも知れない。いずれにせよ、この舞台から改めて痛感するのは、同じ空間・時間を共有することの大切さだ。同じ空気を吸いながら、膝を突き合わせ、とにかく言葉を交わすこと。演劇などの舞台芸術には、その意味での特権的効能がある。なぜならそれは、演者と受容者が同じ時空を共有しておこなわれる唯一のメディアといえるから。
効果音について。今回は始めと終わりで街の喧騒音にヘリの爆音が加えられていた(と思ったが、昨年もあったのか)。すぐに栗山民也演出の『木の上の軍隊』(2013)や『アンチゴーヌ』(2018)を想起した。沖縄が舞台の前者では「オスプレイ」が、ナチスの占領下で翻案された後者では、戦争一般が喚起されたと思う。が、今回はどうか。いま『十二人の怒れる男たち』を再演するこの社会にも、「戦争」のきな臭さが立ちこめていることを示したかったのか。 とはいえ、本作の内容と戦争がただちに直結するわけではないため、やや唐突の感は否めなかった。
俳優座劇場の『十二人の怒れる男たち』は今後どうなるのだろう。新たなプロダクションで再出発するのか。もしそうなら、翻訳の底本は1977年にローズ自身が改訂した最終版を使ってほしい。