平田オリザ・演劇展vol.5/《海、静かな海》を日本で観たい【追記】

平田オリザ・演劇展vol.5を観た(11月7日 13:00 15:30 18:00,8日 15:30 18:00/こまばアゴラ劇場)。

作・演出:平田オリザ
舞台監督:中西隆雄 舞台美術:杉山 至  照明:西本 彩 衣裳:有賀千鶴、正金 彩 
フライヤーデザイン:京 (kyo.designworks)  制作:堤 佳奈、赤刎千久子

忠臣蔵・武士編』
島田曜蔵 大塚 洋 大竹 直 山本雅幸 佐藤 誠 海津 忠 前原瑞樹

侍たちは、一人のトノの刃傷沙汰により切腹、藩の取りつぶしという危機に直面。さてどうするか。大石を中心に六人の侍たちが話し合う。われわれは討ち入りという結末を知っているが、本作はそのプロセスを舞台化して見せる。侍といっても、いまの日本人が会議でどんな態度をとり、どんな発言をするか。それを、パロディ化する。70人ほどの客は、笑いの臨界点が私より低いのか、結構笑っていた。大石(大塚洋)の飄々とした軽さがいい。ラストでまとめの話をする大石。こうなったのも運命だと思う・・・。なぜか、グッときた。が、再度おちゃらけてエンド。武士道(軍国主義的思考に繋がる)を相対化。

『走りながら眠れ』
能島瑞穂 古屋隆太

大杉栄がパリから帰国後、関東大震災の混乱のさなか虐殺される直前までの生活を、伊藤野枝との対話のみで描く。四場構成。役者は二人ともめちゃ巧。能島瑞穂は最近見たなかでは『暗愚小伝』で智恵子役をやった女優か。質の高い対話劇。
ちゃぶ台ひとつに座布団ふたつ。丸椅子がひとつ。身重の女(伊藤野枝=能島)が下手奥の地下口(階下)から登場。腹を重そうにかかえて下手手前の座布団に座り、薬罐から湯を急須に移し、お茶を淹れる。鼻歌を歌いながら。菓子を食べる。そこへ、上手からベージュのスーツにネクタイを締め帽子を被った男(大杉栄=古屋隆太)が革の鞄を持って登場。いかにも海外から帰国直後という態。ここから二人の対話がはじまる・・・。

ヤルタ会談
スターリン松田弘子 チャーチル:島田曜蔵 ルーズベルト:緑川史絵

第二次大戦終結前の歴史的会談。その後の史実を知っている観客の「予備知識」を巧みに利用してパロディをおもいっきり展開。現実にはこの会談から笑えない出来事が起こり深刻な問題が生じた(いまも続いている)。それを、生身の人間(現代日本の俳優)がジェンダーを超えて演じることで、おもいっきり笑い飛ばせる。その痛快さ。ルーズベルトの米語を方言にしたのがすごい(たしかにイギリス語からすれば方言みたいなもんだ)。

忠臣蔵・OL編』
瑞季 鈴木智香子 高橋智子 立蔵葉子 長野 海 村田牧子 森内美由紀(木崎友紀子は体調不良のため降板)

先に武士編を見た後、これを見た。日本の古典というか、神話化すらしている仇討ち。そこに至る話し合いのプロセスを、なんとOLに生きさせることで、このお家騒動をいまのわれわれと地続きにし、われわれのあり方を相対化させる。武士編に比べ少しノリが悪かったが、大石(森内美由紀)の最後のスピーチにはやはり粛然とさせられた。人間の運命について。

『この生は受け入れがたし』
山内健司 川隅奈保子 佐藤 誠 森内美由紀 緑川史絵


寄生虫を研究する学者たち。東京から青森へ移ってきた学者(山内健司)とその妻(川隅奈保子)。田舎に馴染めない彼女と夫の同僚たちとの研究室でのやり取り。冒頭は妻が夫の同僚(佐藤誠)にレクチャーを受けている場面。寄生虫を愛するコアな研究者たちに違和感を覚える妻。後半、寄生虫もこの土地も好きになれないと呟く妻。直後の佐藤誠の表情、あり方が秀逸。空気の温度がさあーと低下する。その後、吉田(森内美由紀)と妻との交流。吉田は離婚経験有り。ラストでは夫のレクチャーに耳を傾ける妻。感情が動いた。佐藤と森内は東北弁ネイティヴか。地元の同僚同士の対話は時々異言語にスウィッチするかのよう。すごいリアル。
いずれも60分前後の小品ながら、演劇として質が高く、大変面白かった。同時代に生み出された作品を享受する喜びはまた格別だ。
来年1月にはハンブルグ州立歌劇場で細川俊夫作曲・平田オリザ脚本/演出のオペラ《海、静かな海》(ドイツ語)が世界初演される。あの3.11が背景にあり、主人公のクラウディアは震災で日本人の夫と子供を亡くした元バレエダンサーという設定(文藝別冊『総特集 平田オリザ』河出書房,2015年)。指揮はケント・ナガノ。しかもメゾソプラノ藤村実穂子がハルコ(主人公の亡夫の姉)役で出演するという。観たい! 聴きたい! が、この時期ハンブルグにはとても行けない。日頃から好いと思っている三人の日本のアーティストが創作し参加する舞台を日本で観ることが叶わないとは。昨年、歌劇場の総支配人が来日し新国立劇場での上演を打診したようだがうまくいかなかったらしい(平田『世界とわたりあうために』2014年)。劇場のサブスクライバーとしてとても納得できないし、なにより情けない。この劇場は、海外からも見に来る価値のあったキース・ウォーナーの「トーキョーリング」のセットを破棄した揚げ句(想えばこの「リング」初演をきっかけに藤村実穂子は飛躍を遂げていった)、あんな古くさいプロダクションの「リング」序夜(『ラインの黄金』)を10月に上演しただけにいっそうその感を強くする。このプロダクションで2016年秋には『ヴァルキューレ』、17年には『ジークフリート』『神々の黄昏』が続く。二十年近く前にフィンランド人の為に創られたプロダクションと、日本が誇る劇作家や作曲家が、この国の未だに癒えない震災後の苦境をモティーフに作り上げた作品と、どちらをわれわれは観るべきなのか。国の税金を投入して運営している国立劇場はどちらを上演すべきなのか。
【誤解を避けるために追記する。これは飯守泰次郎批判ではない。彼は劇場の総支配人(インテンダント)ではなくオペラ部門の芸術監督であり、上記の責任を問うだけの権限を持ち合わせてはいない(今回の「指環」上演にゲッツ・フリードリヒ演出を選択したのも彼の意志ではなかったらしい)。つまり、ハンブルグの総支配人は新国立劇場と交渉しようにも、後者に交渉〝主体〟そのものが存在しなかったというのが真相らしいのだ(運営財団の理事長は〝主体〟ではないということ)。そうだとすれば、新国立劇場には、この国の言語と同様、「主体/主語」が不在であるか、もしくは隠されていることになる。どこに隠れているのか。】