大島莉紗ヴァイオリン・コンサート〜パリ・オペラ座からの便り〜第2回 「実存」を音化する音楽家/新国立劇場オペラ研修所 試演会 アリア抜きのオペラ

先週の土曜日は午前11時から「大島莉紗ヴァイオリン・コンサート〜パリ・オペラ座からの便り〜」をトッパンホールで聴き、その後、初台へ移動し、14時から新国立劇場オペラ試演会の「《コジ・ファン・トゥッテ》重唱で綴るオペラ短縮版」を聴いた(7月28日)。

まずは「大島莉紗ヴァイオリン・コンサート〜パリ・オペラ座からの便り〜」第2回《無伴奏〜過去と「今」の洗練された音を聴く》について。
大島莉紗のヴァイオリン・ソロは、昨年12月に同じく11時スタートの〝ブランチタイムコンサート〟で初めて聴いた(トッパンホール)。ベートーヴェンの「ヴァイオリン・ソナタ 8番 ト長調」はいまひとつの感があったが、ドビュッシー「ヴァイオリン・ソナタ」はよかった。大島の演奏はとにかく破格。枠に収まらない大きさと激しさが記憶に残っている。それと、聴衆に向かって弾くというより、自分のなかの〝なにか〟に対して演奏しているような構えも。

今回の演目は以下の通り。

G. P. テレマン(1781-1767):無伴奏ヴァイオリンのためのファンタジア 第1番 変ロ長調 TWV 40:14
B. A. ツィンマーマン(1918-70):無伴奏ヴァイオリン・ソナタ
J. S. バッハ(1685-1750):無伴奏ヴァイオリン・パルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004
18世紀のテレマンとバッハはバロック弓とガット弦で、20世紀のツィンマーマンは現代弓とスチール弓で演奏された。

前回同様、舞台上の大島のレヴェランスもプログラム(曲目と奏者のプロフィールが印刷されたA4のわら半紙を二つに折っただけ)も破格なまでに素っ気ない。が、いったん弾き始めると気持ちの入り方が尋常ではない。
テレマンの第一音からぐっときた。実に濃厚なバロック。ツィンマーマンは、オペラ《軍人たち》(兵士たち)を新国立で聴いたのみで(2008年)、無伴奏ヴァイオリン・ソナタは今回初めて聴いた。大島は、テレマンが生きた18世紀よりさらに生きにくくなった現代(20世紀〜)のストレスフルな軋みを執拗なまでに顕在化させるように弾いていた。
バッハのパルティータは、Allemandeからいきなり激しい。大島の魂がバッハの音符と強く共振しているかのよう。Couranteも素晴らしかったが、Sarabandeでは思わず涙が出た。続くGigueではパトスが激しく疾走する間、二度ほど弦が弛んだ(ように聞こえた)。その後、慎重に調弦しChaconneを弾き始めたが、特に前半は入れ込み方がそれまでと比べ若干うすれた(あるいは長丁場の作品全体をコントロールしようとした)ように感じた。それでも、たとえば、数年前に聴いたヴィヴィアン・ハーグナーの演奏などよりはるかに素晴らしく、魂が揺さぶられるChaconneだった。大島のバッハ演奏を聴いていて、何度も「実存」という文字が頭に浮かんだ。人間の条件。この世に生まれついたことの悲惨や苦悩を想起させると同時に、大島が生み出す苛烈で冴えた美しい音がその〝悲惨〟や〝苦悩〟を芸術の愉悦に変えてくれる。そんな音楽体験だった。
大島莉紗は、舞曲としての感触を出すことにはあまり頓着していないようだ。作曲家や作品のスタイルに演奏を合わせるというより、自分の魂と深く共振できるものを思い切り演奏したい。そんなふうにみえる。前回のベートーヴェンソナタがいまひとつだったのは、そのへんに理由があるのかも知れない。
また、バロック弓・ガット弦のほうは、現代弓・スティール弦と比べ、柔らかな音色が出やすいのはもちろんだが、大島の場合、内的な深みを出すのに適しているというべきかも知れない。
朝からきわめて濃密な時間を過ごすことができた。


新国立劇場オペラ試演会「《コジ・ファン・トゥッテ》重唱で綴るオペラ短縮版」
音楽監督:木村俊光/指揮・チェンバロ:天沼裕子/演出:伊藤明子/ピアノ:原田園美・星和代

当劇場の研修所による試演会は、若い才能を見る喜びが得られ、同時に教育の力が再確認できる貴重な場。ピアノ一台でオペラを試演するかたちも定着した。今回もそれなりに楽しめた。
後半出演した柴田紗貴子(フィオルディリージ)と小堀勇介(フェルランド)はその場の役に相応しい味がよく出ていて印象的。デスピーナ役は前半(倉本絵里)後半(清野友香莉)とも芝居気がありチャーミング。ドラベッラの小林紗季子は悪くないが、時折、モーツァルトの様式をはみ出し気味か。グリエルモの村松恒矢、ドン・アルフォンソの近藤圭、とちらも安定している。
今回は重唱やレチタティーヴォに焦点を当て短縮して物語を綴るという趣向。たしかにプロットを語るうえではそれでも支障は出ない。ただ、レチタティーヴォはともかく、レチタティーヴォ・アッコンパニャートのあと、アリアを飛ばして次へ移るとどうしても拍子抜けしてしまう。まるでサッカーの観戦中に、中盤からサイドへ開き決定的なラストパスが蹴られた直後、シュートシーンだけ見られないようなフラストレーションだった。この不満は、オペラが物語の叙述を最優先に創られているわけではないことを図らずも告げている。重唱等のアンサンブルが教育上大切なのはよくわかる。だが、オペラではやはりアリア(シュート)が輝かねばどうしようもない。この点がサッカー同様、日本の問題点ではないか。そのためには場数を与えるしか方法はないだろう。特にこうした試演会の場合、客席では見守り育てる構えは出来ているはず。
天沼裕子のチェンバロは自在で華麗。ピアノは前半の原田園美も悪くないが、後半の星和代はドラマティックな伴奏で舞台を引き締めた。