新国立劇場 演劇『長い墓標の列』(1)優れた思想劇/役者の質が高い/観劇後はすっきりしない

福田善之作『長い墓標の列』の初日を観た(3月7日/新国立小劇場)。

作:福田善之
演出:宮田慶子

美術: 伊藤雅子
照明:鈴木武
音響:上田好生
衣裳:半田悦子
演出助手:渡邊千穂
舞台監督:福本伸生


キャスト
山名庄策 経済学部教授(純理派):村田雄浩
山名久子 その妻:那須佐代子
山名弘子 その娘:熊坂理恵子
山名 靖 その息子/警官/写真班:安藤大悟
城崎 啓 助教授(山名の弟子):古河耕史
花里文雄 助手(山名の弟子):遠山悠介
林 祐之 演習学生:梶原 航
飯村圭吉 演習学生:西原康彰
小西兼夫 学生/写真班:今井 聡
村上重吾 経済学部長:小田 豊
矢野哲次郎 経済学部教授(革新派):石田圭祐
千葉 順 新聞記者:北川 響
学生1/写真班:形桐レイメイ
学生2/警官/新聞記者:川口高志
学生3/近所の男:大里秀一郎
学生4/警官/新聞記者:扇田森也
新聞記者:チョウ・ヨンホ
新聞記者:林田航平


芸術監督: 宮田慶子
主催:新国立劇場

舞台は大学の研究室(第1幕)と教授自宅の室内(第2幕〜第4幕)。いずれも濃灰色の本棚が下手に一架、正面奥の中央と上手寄りに各一架、威圧するように高く聳える。自宅の場では舞台手前が庭、後方の本棚と壁の向こうには左右に走る緩やかな坂道があり、訪問客はここを上手から下手へ降って来る。研究室や書斎を外の世界から隔てる壁は、よく見ると、ちょうど果物の中身をくり抜いたように、積み重ねた書物の抉り取られた残骸や小口等の断面だ。つまり、象牙色の巨大な本の山の〝内側〟が山名庄策教授の棲家となる。〝象牙の塔〟の不安定なありようが見事に表象されたセット(伊藤雅子)。
舞台を見て、優れた作品だと改めて感じた。思想的にもかなり濃密な内容を含んでいるのに、風通しがよく、ドラマとして引き締まっている印象だ。作者によれば、380枚に及んだ第一稿(『新日本文学』1957年7・8月号)を、「ぶどうの会のための上演台本をつく」るため「全面的に書き変えて」約230枚に収めた(『新劇』1958年12月号)という(「あとがき」『真田風雲録——福田善之作品集』1963)。
どの役者も台詞回しがクリアで演技も巧み。結果、思想の問題を話題とする知的な対話が舞台上でスムーズに繰り広げられていく。そのことだけで、とても快い。
当初、山名庄策役に村田雄浩は似合わないと思ったが、よく健闘していた。久子役の那須佐代子は台詞はもとより立ち居振る舞いだけで、家庭の空気を作りだした。山名と敵対する矢野哲次郎も、学部長役の小田豊も、こういう学者、学部長、居るよなあ、と思わせる。実にうまい。
今回は、演劇研修所の修了生が14名も出演している。総じてみな達者。なかでも古河耕史(第1期)は、冷静沈着な城崎助教授を見事に演じた。知的な台詞を切れ味よくかつ自在にこなし、余裕すら感じさせる。遠山悠介(第2期)は、一本気で情に脆い助手の花里文雄を好演した。千葉に扮した北川響(第1期)は、同じ弟子でも〝象牙の塔〟の外から恩師を支え、頼りになる新聞記者の役を渋く演じた。弘子役の熊坂理恵子(第3期)は、帝大教授の娘にしてはやや地味めに演じていたが、安定感は抜群。演習学生林祐之役の梶原航(第5期)は一定の存在感は出したが、山名や城崎を側面から相対化する役としてもう少し台詞回しに充溢感が欲しい。関西弁の演習学生飯村圭吉を演じた西原康彰(第2期)は妙な味がある。右傾化して山名ゼミから離れた学生小西兼夫の役は今井聡(第4期)によく似合う。ただ、恩師を襲う場面のテンションの配分にもう少しメリハリがあってもよいと思った。新聞記者役のチョウ・ヨンホは声は魅力的だが、身体性に学生とは異なる社会人としての自立感が欲しい。どの修了生も台詞が明確で落ち着きがある。

ただ、上演を見終わっての高揚感があまりない。すっきりしないというか。なぜだろう。
村田が演じた山名は、たしかに学者には見えた。が、河合榮治郎をモデルに創り出された学者・教育者としては、やはり外面的な造形に終わっていないか(これは役者にではなく演出への不満である)。特に前半、姿や立ち居振る舞いはともかく、対話そのものから理想主義者としての内実というか身体性(内側の構えと連動した)があまり感じられない。エピローグの憔悴した山名は様になってはいるが、壮絶感より滑稽さが優ってしまう。教授職を失い、「国民に訴える」執筆も禁じられた山名が灯火管制のなか「日本の土壌に育つ社会主義理論」構築のため、病を押して必死で勉強に打ち込む。たしかに一面では滑稽ともいえよう。芸術監督は、あるいは、日本を救うため死ぬ覚悟で勉強を続ける「理想主義的自由主義社会主義者」の〝戦闘〟を、このヒロイズムを、城崎と共に批判もしくは美化しないために〝トホホ〟キャラの村田雄浩をキャスティングしたのか(現代ではヒロイズムを実践すると戯画的になると)。
本作には(実践的)理想主義者の山名と(客観的)現実主義者の城崎との対立軸があり、〝どちらの側に立つか〟(taking sides)観客に問いかける。今回のキャスティングおよび上演は、明らかに、城崎の優位性を際立たせるものだった。
改稿に協力した初演演出の竹内敏晴によれば、「山名は否定されねばならぬ。しかし城崎もまた山名を否定したことによって否定される、そのような二重構造を持つ」(青芸のパンフレット/1963年)という。つまり〝どちらの側に立つか〟を問うたうえで、どちらも否定される。それが作品の可能性の中心だと。
今回の舞台では、山名は戯画化を通じて否定されたが、城崎はそのようには見えなかった。城崎と同様に山名を裏切った花里は、弘子との縁談を諦めたのち戦死することで、ドラマ的かつ倫理的に〝罪〟を贖っている。だが、城崎は「自分が犯人であることを引きうけて生きよう、と思うだけです。(長い間)私は、歩きつづけなければ。」と語って幕となる。ここに城崎を否定する演出(照明や音楽等)は見られない。どちらかといえば、生きて現実を見据えようとする城崎の在り方を肯定しているように感じる。だが、「たいへん明快」だが「ゾルレン(当為)がない」城崎、師を裏切った城崎を無媒介に肯定することには違和感がある。これが、すっきりしない理由だと思う。それとも、この感触こそ作者が狙ったものなのか。
明日もう一度観て、舞台の〝成長〟を含め、確かめたい。