新国立劇場バレエ『マノン』4日目 山本隆之の奮闘/寺田亜沙子の喜び/酒井はなの不在

この日のキャストは見ないつもりだったが、偶々チケットを貰いけっきょく行くことに(6月30日)。
デ・グリューの山本隆之はよく奮闘したと思う。挨拶のソロは踊りとしては物足りない向きもあろうが、理知的な味をしっかり出していた。さすがである。寝室のパ・ド・ドゥではマノン役を助け、デ・グリューの内側から湧きあがる喜びを漲らせていた。
本島美和のマノンは、1幕の二つのパ・ド・ドゥでは身体がこわばり、踊りの流れが作れない。相手が山本でなければどうなっていたか。サポートで腰を痛めなければよいが。2幕のソロは悪くない。が、続く連続リフトでムッシューG.M.役の貝川鐵夫の袖口がマノンの髪飾りに引っかかり、数秒間流れが中断した。2幕2場のブレスレットをめぐるパ・ド・ドゥは予想どおり彼女の性格に合っていた。3幕の沼地のパ・ド・ドゥも山本の盤石なサポートのお陰で一見すると悪くはない。だが、そこにあるべき〝美しさ〟が欠落している。もちろん、髪を刈られたマノンはあの場で流刑人の襤褸を身に纏い憔悴しきった姿を晒す。だが、死を目前に初めてデ・グリューを無条件に信頼しえたマノンは、それを身体で表現すべく、何度も全身を投げだし相手に身を任せていく。命が尽きるまで。この自己放棄がマノンに〝聖性〟を賦与したことは、そこで響く音楽が雄弁に語っている(前奏曲として使われたオラトリオ『聖処女』の最終部)。だが、少なくとも私はこの日のマノンに、音楽が指し示す属性を感じることはできなかった。それどころか、このダンサーを見ていると、我知らずこちらの表情がこわばってくる。なぜだろう。
このプリンシパル・ダンサーと対照的だったのが、レスコーの愛人役を踊ったソリストの寺田亜沙子だ。2幕でのレスコーとの酔っぱらいのPDDでは、今回はじめて頬が緩んだ。寺田の踊りには喜びがある。役柄からすればもう少し蓮っ葉な感触が欲しいが、踊り・演技ともに柔軟性があり、とにかく見ていて楽しい。レスコーの福田圭吾は、役のタイプではないかも知れないが、じつに活き活きと踊っていた。振付のかたちがよく見える。娼家のマダムに扮した西川貴子は、踊りの質の高さが眼に付いた。少々品のよい〝やり手婆〟だが、なによりマイムや動作に強度がある。高級娼婦の厚木三杏はこの日の芝居もキレキレで、数人分の仕事をしていた。初日のメモに書き忘れたが、2幕に登場する〝少年装〟の娼婦役五月女遙は踊りの切れ味が抜群で、倒錯的な色気も出ていた。

山本隆之の奮闘振りを見ていて、何度も九年前の酒井はなを想い出した。この劇場で、もう一度、マノンを踊って欲しかった。おそらく酒井はマノンを全幕で踊った初めての東洋人だと思う。いいかえれば、彼女は新国立劇場の〝財産〟であった(はずだ)。そんなバレリーナがなぜ『マノン』の再演を踊れないのか。あるいは、なぜ劇場は(そして観客も)そのように育てられなかったのか。たいへん残念である。