大正直劇団『三文オペラ改』

知人が出るというので観てきた(9月6日 14時/中野ウエストエンドスタジオ)。

作:ベルトルト・ブレヒト
台本・演出:串田杢弥
音楽:クルト・ワイル、CARRIE☆ミ
舞台監督:はじり孝奈/照明:原彰人/照明オペレーター:内田英嗣/チラシイラスト:Kentoo
出演:岡田静(友情出演)/藤原シンユウ/憩居かなみ/山本直輝/白石悠佳/今井聡/桐澤千晶/小野寺博/コイワミナ/森田亘/岡田彩・宇賀祐太郎/連木綿子/串田杢弥

うたい文句から当初は少し〝怪しい〟のかと思ったが、意外にまともな舞台だった。
「大戦直後のドイツを舞台に大胆にアレンジ」(プログラム)。たしかにブレヒト版の舞台は十九世紀のロンドンだが、それを第二次大戦直後のドイツに変更している。それに伴い、メッキーとタイガーの関係が戦時の入り組んだものに変わり、例のハッピーエンディングもブレヒトや大本のゲイ(乞食オペラ)にも見られた荒唐無稽さは払拭され、ナチスがらみのある意味リアル(?)なオチとなっている。だが、プロットの運びや場の流れは基本的にブレヒトを踏襲しており、大胆な改作との印象はない。
二階部屋や階段等を作り込んだ背の高い複数のセットを、景が変わる毎に役者たちが祭礼の山車のように動かす。狭い空間を巧みに利用する工夫を凝らした場面転換がもっとも印象に残った。
ピーチャム夫妻だけ顔はピエロのように白塗りで、さらに夫(藤原シンユウ)は頭に小さな冠を付けている。後者のやや暑苦しい人物造形(それとも地か)とメーキャップがいまひとつ腑に落ちなかった。
メッキー役はあくどさがなくむしろ人がよさそうで、適役といえるかどうか。特に歌が・・・。ただし、舞台での在り方や飄々とした台詞回しに妙な味がある。帰りの電車でパンフレットの役者紹介を見てもこの役が見当たらない・・・挙げ句にやっと気づいた。彼が串田杢弥だった。
ピーチャム夫人(岡田静)の歌は玄人芸。パウラ役(ブレヒト版のポリー/憩居かなみ)も歌が達者で、踊りもうまい(少し喉をやられていた)。ブラウン役(山本直輝)は演技の強度が高い。ハンス役(B版のジェーコブか/小野寺博)は人一倍汗をかき、味のある存在感と怪力で舞台に大きく貢献。エッボ/クルツ/他(B版のフィルチ/マサイアス等)の今井聡は複数役を大車輪でこなしたが、結婚式で猥談した後メッキーに楯突く条りはもう一工夫ほしい。ピーチャムとメッキーは台詞の入りが不完全で、ここぞの時に客の集中を削ぎ気味。ブレヒトの異化効果としては(結果)OKかも知れない。
ラストで東西を分断する壁を造った直後、その上にハンマーやツルハシを持った男が現れ幕となる。壁の建設と破壊までの数十年を数十秒で飛び越えるのはいくらなんでも無茶だろう。何を暗示したいのか判然としない。ただ、メッキーが絞首刑を免れたあと全員で浮かれ騒ぐなかピーチャム夫人がマイク片手に歌うが、その歌詞が意味深長だった。といってもあまり覚えていない(ブレヒトばりに歌詞を明示してもよかった)。これから待ち受ける社会の不気味さ? 希望に満ちるかと思いきや「でも人が居ない・・・」。これは少子化のこと? 今後の日本社会を暗示? だが、この場面の後で例の壁が建設されるのだ。とすれば、あれは分断後のドイツの社会を歌ったのか?
冒頭とラストで全員が一列に並び楽器を演奏する。ピアニカ、クラリネット、チューバ、トロンボーン、トランペット等々。お世辞にもうまいとはいえないが、自由劇場の『上海バンスキング』を彷彿させる。やはり憧れがあるのか。自由劇場の芝居はほとんど見そびれたが、『第七官界彷徨』(串田和美演出/1983年)は、尾崎翠の原作小説ゆえに、六本木自由劇場へ足を運んだ。もう三十年以上前の話。
それにしても、どうせ改作するなら日本の設定にしたらどうか。それならもっと客もピンとくるだろう。「敗戦から東西ドイツ分割までの空白の四年間・・・」とかナチスの「親衛隊中佐スコルツェニーが・・・」といわれても、客席の大半は何のことか分かるまい。
明日は新国立劇場版『三文オペラ』の初日が開く。さてどんな舞台になるのか。