新国立劇場 開場20周年記念特別公演 オペラ《フィデリオ》新制作 2018【断片】

はてなダイアリーが1月28日に更新停止となる。最後まで書き切れていないが、記録として下書き欄から〝救出〟した。

ベートーヴェンの唯一のオペラ《フィデリオ》の初日、三日目、千穐楽を観た(5月20日 14:00,27日 14:00,6月2日 14:00/新国立劇場オペラハウス)。
大変刺激的な舞台だった。予定欄にも書いたが、初日に演出家めがけてブーイングとブラボーが飛び交ったのは新国立劇場では久し振り。ブーが「待ってました」と気持ちよさそうに聞こえたのは、たぶん気のせいではない。近年この劇場の客層は以前とは違いあまりにストライクゾーンが広いというか、「これでブラボー?」と感じることが少なくなかった。オペラで同一演目をリピートしたのも久し振りだ。以下、だらだらメモを記す。

フィデリオ》全2幕〈ドイツ語上演/字幕付〉
作曲:ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
指揮:飯守泰次郎
演出:カタリーナ・ワーグナー
ドラマツルグ:ダニエル・ウェーバー
美 術:マルク・レーラー
衣 裳:トーマス・カイザー
照 明:クリスティアン・ケメトミュラー
舞台監督:村田健輔


ドン・フェルナンド:黒田 博
ドン・ピツァロ:ミヒャエル・クプファー=ラデツキー
フロレスタン:ステファン*(スティーブン)・グールド
レオノーレ:リカルダ・メルベート
妻屋秀和:ロッコ
マルツェリーネ:石橋栄実
ジャキーノ*(ヤッキーノ):鈴木 准
囚人1:片寄純也
大沼 徹:大沼 徹

合唱:新国立劇場合唱団 (合唱指揮:三澤洋史)
管弦楽:東京交響楽団
【*この劇場は以前から固有名のカタカナ表記がおかしい。アメリカ人歌手のStepen Gould がなぜ「ステファン」とドイツ語読みになるのか。スペイン人のJaquinoが「ジャッキーノ」では他の表記と一貫性が損なわれないか。】

政治犯として夫が投獄された監獄へ男装した妻が乗り込み、看守長のもとで働きながら機を見て夫を救出する。本来はそういう話。だが、今回はそうはならない。演出のカタリーナ・ワーグナー曰く「今を生きる我々は歴史上の出来事を無視することはできない」から、らしい(「朝日新聞」2018. 5.14)。
セットはコンクリートの打ちっぱなしで造られたドールハウスみたいに、空間がいくつか分けられている。上階の三つの空間は、シモテがレオノーレの、カミテが看守長ロッコの部屋で、広い中央には段差がついている。ロッコの部屋の真上はさらに別の空間が穿たれ、刑務所長ドン・ピツァロの部屋だ。階下は地下牢で、シモテ奥には立方体の石が大小置かれ、中央ややカミテ寄りの出口には黄色の鉄格子が見える。当然ここは薄暗く、蝋燭が数本点っているのみ。途中で舞台が上昇すると、一般受刑者たちを収監した一段下の地下牢がせり上がる。このように、舞台では当国営刑務所のヒエラルヒーが視覚化され、それぞれの空間から個々の世界観や密かな想いが客席に示されるが、人物同士には見えないという趣向。
第1幕
開幕すると、地下牢のシモテ奥で石の台に突っ伏した政治犯のフロレスタン(スティーヴン・グールド)と、カミテ最上階に後ろ向きで立つ刑務所長のピツァロ(ミヒャエル・クプファー=ラデツキー)にのみ光が当たっている。序曲の後半(ホルンが奏するあたり)から、ロッコ(妻屋秀和)とヤッキーノ(鈴木准)が中央の空間に芝生の絨毯を敷き、ピンクの薔薇を次々に植えていく。するとロッコの娘マルツェリーネの遊び部屋に早変わりする。奥には大きなピンクの衣装ダンスがあり、のちにロッコがこの扉を開けると娘のマルツェリーネ(石橋栄実)が飛び出してくる……。マルツェリーネの幼い幻想を父ロッコやヤッキーノらが支えているということか。
マルツェリーネのアリア(第2番「私があなたと一緒になれたら」)で石橋はリリカルだが声量豊かな歌唱を聴かせた。素晴らしい。さらに、箱から男女の人形を出して遊ぶ演出が効果的で、十代の少女に見えた(リブレットの設定は16歳)。……4人がそれぞれの想いを歌うカノンの4重唱(第3番「不思議でならないわ」あ)は本作で一番好きな曲。飯守のテンポはかなり遅めだが、それぞれ別の空間で歌いながらも、バランスは悪くなかった。石橋の豊かな声の叙情とメルベートの硬質さが絶妙に混じり合い、そこへ、妻屋のよく通る「善良な」歌声と鈴木の不貞腐れた若い「ぼやき」が絡んでいき、美しいハーモニーを作り出す。グッときた。音楽の喜びが横溢した。
……囚われのフロレスタンは、時おり階上のマルチェリーナが下に投影される影を見て、壁に天使の絵を描き出す(後の第2幕冒頭で彼はこう歌う、「一人の天使がバラの香気の中に/私を慰めようと側に立っているのが見える。天使、レオノーレ、わが妻……」)。プラトンの洞窟の比喩みたいだ。シモテ上の部屋(つまり幽閉されたフィデリオの真上)でレオノーレ(リカルダ・メルベート)は男の服に着替え、壁の隠し戸棚を開けて夫のポートレートを取り出し、抱き締める。右上のロッコの空間では、投獄された人々の服から金目のものを取り出す(?)作業をヤッキーノと続ける(第4番「人間、金を持っていなければ」)。窓には外界の青空を描いた絵がはめ込まれている(疎外感の裏返し)。
刑務所長ピツァロの行進曲(第6番)が始まるとマルチェリーナのための幻想空間は急いで元に戻されていく。ロッコ、ヤッキーノ、さらにフィデリオ(レオノーレ)も手伝う。ピツァロに査察の手紙を渡すロッコ。レオノーレのレチタティーヴォとアリア(第9番「若者よ! どこへ急ぐのだ?」「希望よ来れ、疲れ果てた人々の最後の星を」)では、ホルンに導かれるアリアから、男の服を脱いで柄物のワンピースを着る。メルベートが「希望」を求めた入魂の歌唱を聴かせた。ホルンもよい。
囚人たちに外気を吸わせるシーンでは(第10番)舞台が上昇し、フロレスタンの居る階のさらに下の地下牢が姿を表す。ただし、囚人たちのコーラスは聞こえても、後半で看守たちが照らすカンテラ以外に光はない。つまり闇のまま。
ロッコの「勝手な」措置に怒るピツァロ。怯えるマルチェリーナ。その影を見た地下牢のフロレスタンは、壁に描いた天使の絵を次々に消していく。シモテの壁の絵を除いて。エンディングは、地下牢で絵を消していくフロレスタンと、カミテのロッコの部屋で十字架(ロッコとレオノーレがフィデリオの墓用に作った)を持つピツァロにだけ淡い光が当たり、あとはすべて闇の中で歌われる。囚人のコーラスも。次第に舞台は下がっていき、最下層の地下牢が見えなくなって幕。秀逸な幕切れ。
第2幕
重々しい序奏の後、フロレスタンのレチタチーヴォとアリア(第11番「ああ! なんと暗い所だろう!」「人の世の春の日に」)。「……あえて真実を述べた代償がこの鎖。私は喜んであらゆる苦痛に耐え、恥辱のうちに人生を終えよう。こころには甘美な慰めがあるから、義務を果たしたという慰めが」。「穏やかに囁く外気を感じないだろうか? 私の墓は明るく照らされていないだろうか? 私には見える、一人の天使がバラの香気に包まれ、私を慰めようと側に立っているのが。天使、レオノーレ、わが妻、まったく同様に、その者が私を天の王国にある自由へと導いてくれる」。フロレスタン役のグールドは、尖ったもので腕を自傷する。タナトス的な死への意思? さらに、彼はタイルを剥がし、下の土を掘り出す作業を続ける。墓穴を掘っているらしい。これらはすべて、壁に描いた天使=レオノーレ=わが妻に導かれて「天の王国にある自由」を求めての行為だと、2回目以降にそう思った。
ロッコフィデリオの鬘に気づく。壁の絵を見るロッコ。ピツァロに刺されるフロレスタン。ファンファーレ。
夫婦の二重唱が終わり、階段を登って出ようとすると、男の笑い声。手下らを従えてピツァロが姿を現し、二人を遮る。このとき序曲第3番が始まる。ピツァロはレオノーレの服と同じ柄のスカーフで彼女の首を絞め、無理やりキスをしながらナイフで脇腹を刺す。勝利の音楽のなか、ピツァロはブロックをひとつずつ積みあげ、出口を塞いでいく。地下牢が闇に包まれ、絃楽器群のハイテンポとともにステージが上がり、下の地下牢が見えてくる。・・・
・・・パウル・ツェラン「死のフーガ」(1945)の一節が頭に浮かぶ、「ぼくらは宙に墓を掘るそこなら寝るのにせまくない」。ツェランユダヤ系ドイツ人で両親は強制収容所で死に、みずからも収容所体験を有する。・・・